好きなものができると、人生は豊かになる、幸福になると言われるとき、私は少しだけ苦しくなる。好きであればあるほど、私はたまにとても悲しくなり、つらくなり、そしてそのたびに私はその「好き」が、自分のためだけにある気がして、誰かのための気持ちとして完成していない気がして、いたたまれなくなる。好きな存在にとって少しでも、光としてある気持ちであってほしいのに、私は、どうして悲しくなるんだろう?
 私は、宝塚が好きです。舞台に立つ人たちが好き。その好きという気持ちが、彼女たちにとって応援として届けばいいなと思っている。そして、同時に無数のスパンコールが見せてくれる夢の中にでも、悲しみもある、不安もある、そのことを最近はおかしいと思わなくなりました。未来に向かっていく人の、未来の不確かさをその人と共に見つめたいって思っている。だから、そこにある不安は、痛みは、未来を見ることだって今は思います。好きだからこそある痛みを、好きの未熟さじゃなくて鮮やかさとして書いてみたい。これはそんな連載です。

 舞台に立つ人を尊敬している。歌も芝居も踊りも私はかけらもできないので、なにがどうなってるのかもそもそもわからないし、何よりそこに至るまでのその人が舞台のために費やした時間について考えもする。才能という言葉がもてはやされるけれど、才能だけで舞台に立てる人などいないよ。それはどんなジャンルだってそうだけど、身体に近い表現であればあるほどそのことがこちらにも迫ってくるのだ。観劇とはその人の人生の断片を見せてもらう行為でもあり、だからこそその人自身に惹かれるきっかけにもなるのだと思う。

(イラスト◎北澤平祐)

 単なる「見る」「見られる」の感覚でおさまらず、ずっと圧倒されているし、圧倒させるのがあの人たちのお仕事なのだろうと思って見ている。ただ一方で、宝塚はとくに専門のCS放送があるため、トーク番組での本当に普通の、不器用さや人間っぽさが垣間見えることは多くあり、そういうときになんか……かわいい人だな……となってしまうの、いつもどうして……と思うんです。それこそ全く知らない人なのに、そこで人柄が好きとかかわいいとか思う自分がほんと理解できなくて、困惑していた。特に「かわいい」。かわいいって思いながら同時に、「かわいいって……なんなんだよ……」とも思っています(大人の他人に思っていいことなのかもわからないのです)。未熟な部分を未熟だから愛でているのか、なんてもしも言われたら、そういうことじゃないんですよ!と強く言いたくなってしまう。でも、かわいいはかわいい、好きは好き。その感覚がどういうつもりで自分から出てきたのかわからなくなる時がある。舞台の上にいないとき、その人はどう思われたくて、どう魅せたくてそこにいるのか予想がつかないから、もしかしたらどう思おうが結局全て罪悪感が付き纏うのかもしれません。というより、舞台として差し出されるものだけで満足していないことに申し訳なさがあるのかもしれないなぁ。