お芝居はやっぱり演じているもので、特に宝塚は男役や娘役という「あり方」自体がフィクションで、たとえお芝居中でなくても、芸名として舞台に立つショーでもその設定は変わらないし、彼女たちがお客さんの前で完全なノンフィクションになることはない、と私は思っています。それでも舞台を見ているときの「この人、だれ!?」という気持ち、芝居の構成や衣装やその他の設定ではなく、そこにいるその人自身に惹かれてしまうとき、私は本当にその人を見ているのか? 役が好きなだけでは? ショーのその場面が好きなだけでは? とたまに不安で、「その人が好き」ってなにを根拠にしているのだろうと自分でもわからなくなる。知らない人なんだよなぁ、本当は。何も知らない人を遠くから応援しているのに、その人を好きだと思うから、「好き」の気持ちがうわべだったらどうしようってすごく怖くなるのかな。
 本人のことをなにも知らないことは明らかなので「見せてくれる夢」を私は愛しているんだろうなと思いながら、「夢」だけを好きになるだけでいいんだろうか? と思ってしまう。夢を見せる仕事なら、夢を受け取ればいい、とわかってはいるのですが、「応援する」とか「好き」とか、そういうのはどうしても生身のご本人に向けてのものになるから、「夢」だけをみて「夢」の中のその人に向けて何かを祈ったり伝えたりするのは私は怖い。私が、自分と詩人の自分を完全に分けているから余計にそう思うのかもしれないけど、その人自身に向けての祈りやその人に届く言葉を、その人が見せる「幻」とご本人を完全に重ねたままで発するのが私はどうしても苦手です。その人が幻とイコールでないことをちゃんとわかっているって伝えながらじゃないとファンレターとかも書ける気がしなくて、多分これは私の個人的なこだわりなのだと思います。