「前回までのあらすじ」
空き家のメンテナンス業に携わる水原孝夫。妻・美沙の実家を遺体安置所『もがりの家』に、美沙がお茶会に通う『みちるの館』を別形態での営業に転換しようとする空間リノベーターの石神井晃に、水原夫妻は本音をぶつけた。後日、美沙と息子のケンゾーはみちるを誘い仲間と最後のお茶会を開く。そして美沙は兄・健太郎と語り合い、兄は実家の売却を決断した
「著者プロフィール」
重松清 しげまつ・きよし
1963年岡山県生まれ。99年『ナイフ』で坪田譲治文学賞、同年『エイジ』で山本周五郎賞、2001年『ビタミンF』で直木賞、10年『十字架』で吉川英治文学賞、14年『ゼツメツ少年』で毎日出版文化賞を受賞。近刊に『ひこばえ』『ハレルヤ!』など。20年7月に『ステップ』が映画化された(飯塚健監督・山田孝之主演)
第八景
「空き家の雪隠でなにを叫ぶ(3)」
6
孝夫と美沙が着くのを待って、工事が始まった。
重機のアームがゆっくりと上がり、先端の爪が建物の外壁に食い込んだ。半世紀近くにわたって雨風を防いできた壁に、あっけなく、大きな穴が穿たれる。
美沙は低くうめいて、息を呑む。仕事柄、家屋の解体現場には慣れている孝夫も、思わず眉間に皺を寄せた。他人事ではいられない。いま取り壊されているのは美沙の実家なのだ。
十月──ご近所のキンモクセイは花盛りだったが、せっかくの香りも、重機のオイルや瓦礫の埃臭さにかき消されている。
外壁がバリバリと音をたてて引き剥がされる。さすがに一度では剥がしきれないので、壁に爪を立てて引くのを繰り返す。大きなウエハースを何度かに分けて割っていくようなものだ。
やがて手前の外壁がすべて落ちて、一階と二階が丸見えになった。
日曜日の午前中である。休日の朝の住宅地には不似合いな工事の音が響きわたる。
近所迷惑は重々わかっている。現場監督は昨日のうちにご近所に挨拶をした。孝夫と美沙もさっきまで、菓子折を手に一軒ずつ回っていた。音の響き方次第では、さらに離れた家からのクレームもありうるだろう。その事態に備えて、菓子折はまだいくつも車に積んである。
しかたない。悪いのはこちら──すべては美沙のワガママなのだ。
もともと工事は金曜日の予定だった。
だが、美沙は金曜日と土曜日に、みちるさんを誘って一泊二日で関西旅行を組んでいた。宝塚大劇場の公演を観て、一九七〇年代の少女マンガ好きの聖地──神戸の異人館と、新選組ゆかりの京都の旧跡を巡るのだ。
工事には立ち会えない。それでいい。「ヘンに迷いたくないから、キャンセルできない用事を入れちゃった」と美沙自身、笑って認めていたのだ。
その思いが、直前になってひるがえった。
工事を帰京後に延期してもらうよう、健太郎さんに頼み込んだ。ケンもホロロに断られるのは覚悟していた。最後は施工業者に直談判するつもりだった。
ところが、健太郎さんはそれを受け容れてくれた。自ら業者に連絡を入れて、いつもの押しの強さで日程変更を呑ませたのだ。
もっとも、レンタルの重機は、月曜日は別の現場での終日予約が入っている。取り壊しを火曜日まで延ばすと、その後の工程が組めなくなってしまう。
使えるのは、日曜日だけ。
しかも、美沙には、孝夫ともども、夕方から大切な予定があった。
ケンゾー率いる『手裏剣スナイパーズ』の秋公演である。すでに初日の幕は開いていたが、あえて日曜日のステージに招待された。「他人行儀みたいでアレなんだけどさ……」と照れくさそうにケンゾーが渡してくれた招待券二枚は、〈祝 結婚記念日〉の熨斗袋に入っていた。
さすがに、日曜日の午前中は非常識に過ぎる。工事の立ち会いと旅行のどちらかをあきらめるしかない──。
孝夫はそう思っていたのだが、美沙は「日曜日の朝、悪くないんじゃない?」と、むしろ歓迎していた。「ご近所に迷惑をかけたら謝ればすむんだし」
「いや、でも、結婚記念日だけど……」
「結婚記念日だから、いいんじゃない」
美沙は、きっぱりと言った。