好きなものができると、人生は豊かになる、幸福になると言われるとき、私は少しだけ苦しくなる。好きであればあるほど、私はたまにとても悲しくなり、つらくなり、そしてそのたびに私はその「好き」が、自分のためだけにある気がして、誰かのための気持ちとして完成していない気がして、いたたまれなくなる。好きな存在にとって少しでも、光としてある気持ちであってほしいのに、私は、どうして悲しくなるんだろう?
 私は、宝塚が好きです。舞台に立つ人たちが好き。その好きという気持ちが、彼女たちにとって応援として届けばいいなと思っている。そして、同時に無数のスパンコールが見せてくれる夢の中にでも、悲しみもある、不安もある、そのことを最近はおかしいと思わなくなりました。未来に向かっていく人の、未来の不確かさをその人と共に見つめたいって思っている。だから、そこにある不安は、痛みは、未来を見ることだって今は思います。好きだからこそある痛みを、好きの未熟さじゃなくて鮮やかさとして書いてみたい。これはそんな連載です。

 何回も見ることについて合理的な説明をしようとすればいくらでも説明ができるが、実際のところそんなことは少しも問題ではなくて、他人にあなたの観劇回数はまともですと言ってほしいわけでもないし、それなのに、どうしてか、観劇について話していると、つい回数の話をしてしまう。自分がその公演を好きだという話をするとき、すぐ「何度も見てしまった」なんて言ってしまって、それは一番伝わりやすいからかもしれないし、ネタになりやすいからかもしれないが、的外れなことを言っているなぁって言いながらもうわかっているのだ。周りと比べて多かったり少なかったりしても、私の心情は何も変わらないし、自分基準でも、他の公演より多いから好きというのもまたちょっと違う気がしている。見たいから見ていて、見られないと辛いから見ていて、そこで目指している「満足」ってなんなんだろうなぁ……深く考えたくなくてその辺りから目を逸らし続けているんだ。私が私を満たそうとすることは当たり前のことのはずなのに、自分の「好き」のために生きることと何かずれている気がしていた。自分でそこを捉えようとするのはとても難しいけど、何かを好きになることと、幸せになろうとすることはたぶん完全には一致していないのだろう。私は自分の「好き」という感情が本当に好きで、大切で、それをどこまでも自由にしてやりたい。けれど、好きであることを大切にしているだけでは、私は満たされないことがあるとわかってもいる。好きなだけでいいなら私が公演を満足するまで見られるかなんてどうでもいいことであるはずだ。好きな人たちが楽しく舞台に立てたらそれでいいはず。でもそうはならない。好きだからこそたくさん見たいと思うし、たくさん見ることそのものが「好き」の表れではないとももうわかっている。わかっているままそれ以上考えないようにしていた。「好き」を、言い訳にしてしまうのはいやだな、美しい感情を理由にしてこんな行動取ってるんじゃないよなぁ、見たいっていう願望は、ほんとうに「好き」だからだけなのかなぁってたまに思ってしまうのです。

(イラスト◎北澤平祐)

「好き」を綺麗で純粋で無欲な気持ちだと思い込むからこんなふうに苦しくなる。特に、ファン心としての「好き」は、一方通行だからこそ、綺麗で純粋で無欲なものに濾過していこうと必死になっている。これは礼儀として、相手は「好き」を受け止める仕事をしているのだから、その仕事の姿勢を理解していたいというのがあるのだと思う。「好き」を受け止める仕事ってとんでもない仕事だし、そういう仕事としての在り方が好きだ。
よく考えれば私は、たぶん生身の普通の人をこんなふうには好きになりたくないのだ。普通に好きになると、好かれたいとか、独占欲とか湧いてしまって、そういうものが本当に私は嫌でしんどいし、それらから「好き」という気持ちを守ってくれるタレントさんのプロの仕事を尊敬している。以前、ツイッターで「スターは職業なんですよね。そういう仕事。存在そのものをファンタジーにして、人の「好き」を自由に解放する仕事。リアルな人間として見ていないことへの申し訳なさはあるけど、でもそれを踏み躙る行為だと恥じることは彼女たちに申し訳ないからしたくないし、消費という言葉には違うって言いたくなる」って書いた。好き、という気持ちの向こう側にあるドロドロしたものに踏み込まなくてもいい、そういう中でどこまでも「好きだなぁ」って思うことが許されるって本当にすごいことだと思う。人を応援することのこの一方通行なあり方がむしろ、愛情を楽なものにしていて、人を好きになることがこんなに簡単でいいのかな、ありがたいな、とよく思う。人は誰かを好きになるために生きている時がある、そうじゃないと無理な時がある。だから、どうしようもなくこの出会いは幸せなものだ。