好きなものができると、人生は豊かになる、幸福になると言われるとき、私は少しだけ苦しくなる。好きであればあるほど、私はたまにとても悲しくなり、つらくなり、そしてそのたびに私はその「好き」が、自分のためだけにある気がして、誰かのための気持ちとして完成していない気がして、いたたまれなくなる。好きな存在にとって少しでも、光としてある気持ちであってほしいのに、私は、どうして悲しくなるんだろう?
 私は、宝塚が好きです。舞台に立つ人たちが好き。その好きという気持ちが、彼女たちにとって応援として届けばいいなと思っている。そして、同時に無数のスパンコールが見せてくれる夢の中にでも、悲しみもある、不安もある、そのことを最近はおかしいと思わなくなりました。未来に向かっていく人の、未来の不確かさをその人と共に見つめたいって思っている。だから、そこにある不安は、痛みは、未来を見ることだって今は思います。好きだからこそある痛みを、好きの未熟さじゃなくて鮮やかさとして書いてみたい。これはそんな連載です。

 人と話すのは苦手だけれど、宝塚が好きな人とは話しやすい。それは「仲良くなれる」というのとは違っていて、むしろ踏み込んではいけないところがある程度わかるから、というのが大きいのかも、と思う。応援している人が同じかどうかはあまり関係なくて、「誰を好きか」より「誰かを好き」で繋がっている気がするし、本当は「仲間」を探しているのではないのかもしれない。舞台が好きで、舞台の上に好きだなぁと思う人がいる、というのさえあれば、それ以外は何も同じでなくていい。というより、同じでない方がうっかり踏み込んでしまうことも減るし、そこに安心を求めてもいる。

(イラスト◎北澤平祐)

 好きなものがあると人付き合いが少し器用になるなと思う。どのように好きかとか、好きという気持ちがどんなことを引き起こすかとか、そんなことは少しも共有できなくて、私自身、他者の気持ちに共感できる自信はそんなないし、全てをぶつけて聞いてもらいたいわけでもなく、ただお互いに相手が好きな出演者が出ている公演や、好きな組の話を持ちかけ、自分が話したいことより、相手が話したいことを話すきっかけになる言葉を探している。宝塚が好きな人と話していると、自分がいつも全然できない「ほどほどの会話」が突然できていることに気づいて驚く。相手に深いことを聞きすぎず、でもその人が話しやすいことを聞く、ということ。たぶんだけど、人は、心の奥深くにしまっていることを曝け出すことで親しみを覚えたり信頼を勝ち得たりするなんてことはそうなくて、むしろそういうものをずっと自分だけのものにしておける時間を求めているんだ。少なくとも、私はそう。なんでなにもかもを聞かれなきゃいけないんだろう、とか、なんでこの人はこんなにも内面に渦巻くものを垂れ流すことを「正直になること」だと思い込んでいるんだろう、とか、私はこれまでよく考えてしまっていた。それはたぶん、互いが心の中にしまい込んでるものがどれほど大事なことなのかわかっていないからなんだ。中身がどんなものか知らないからこそ、ではあるけれど、何かを好きであるなら、中身がわからなくてもその大切さだけはわかる。当たり前に相手の「話さない」を尊重しようとする私がいて、相手がいて、人付き合いってこんなに簡単だったんだなぁと何度も思った。何も知らない頃想像していた「オタク仲間」とは全然違っている。