2023年、中公文庫は創刊50周年を迎えました。その記念企画として、本連載では「50歳からのおすすめ本」を著名人の方に伺っていきます。「人生100年時代」において、50歳は折り返し地点。中公文庫も、次の50年へ――。50歳からの新たなスタートを支え、生き方のヒントをくれる一冊とは? 第42回は、作家の窪美澄さんにうかがいます。

窪美澄(くぼ・みすみ)

1965年、東京都生まれ。2009年「ミクマリ」で「女による女のためのR-18文学賞」大賞受賞。11年『ふがいない僕は空を見た』で山本周五郎賞、12年『晴天の迷いクジラ』で山田風太郎賞、19年『トリニティ』で織田作之助賞、22年『夜に星を放つ』で直木賞を受賞。その他の著書に『よるのふくらみ』『じっと手を見る』『いるいないみらい』『たおやかに輪をえがいて』『ははのれんあい』『夏日狂想』『タイム・オブ・デス、デート・オブ・バース』『夜空に浮かぶ欠けた月たち』などがある。

50歳のとき出会った海外小説

正直なことを言ってしまうと、本のなかでは海外文学が少し苦手だ。でも、苦手なんて言ってたらだめよ、と自分にカツを入れて、日本の小説→日本のノンフィクション→海外の小説→海外のノンフィクションと順繰りに読む決まりを作った。それでも、海外の小説の順番になるとページがなかなか進まず、途中挫折、読みかけの本が積まれていく。翻訳者の文章をつかむのに人より時間がかかってしまうのだ。海外の本が読めないなんて、ものすごい欠点。これはもう、たくさん本を読んで、慣れるしかないんだ、と思うけれど、どうにも苦手意識は拭えない。年齢を重ねるごとに、それは強くなっていった。

50歳になったある日、日本の小説を読んでいるみたいに読める海外の小説に出会った。台湾の作家、呉明益著『歩道橋の魔術師』(2015年、白水社〈エクス・リブリス〉)である。翻訳者は天野健太郎さん。呉さんの文章はもちろんいいのだろうけれど、天野さんの文章がとてもいい。私は水を飲むようにどこにもひっかかることなく、この本を読み進めることができた。

舞台になるのは1961年から92年まで、台北市・中華路に存在した商業施設「中華商場」で、三階建ての建物が八棟、それぞれの棟に「忠」「孝」「仁」「愛」「信」「義」「和」「平」と名前がついていたという。そして、棟をつなぐ歩道橋。そこで靴ひもと靴の中敷きを売っていた少年は、手品の道具を売る魔術師と出会う。魔術師が見せた仕掛けのない本当の手品とはいったい何なのか? 物語はそこからスタートし、今、大人になったあのときの少年、少女が遠い過去を振り返る。けれど、そこにベタベタとしたノスタルジーのようなものはない。虫ピンで地図上のある地点を刺すように、彼らの人生は中華商場からスタートしている。そのことは疑いようのない事実。だから、もう真実かどうかわからない記憶の断片を抱えながらも、それでも生きていく、という覚悟のようなものも感じる。

魔術師は少し考えてから、しゃがれた声で答えた。「ときに、死ぬまで覚えていることは、目で見たことじゃないからだよ」(P20)