好きなものができると、人生は豊かになる、幸福になると言われるとき、私は少しだけ苦しくなる。好きであればあるほど、私はたまにとても悲しくなり、つらくなり、そしてそのたびに私はその「好き」が、自分のためだけにある気がして、誰かのための気持ちとして完成していない気がして、いたたまれなくなる。好きな存在にとって少しでも、光としてある気持ちであってほしいのに、私は、どうして悲しくなるんだろう?
 私は、宝塚が好きです。舞台に立つ人たちが好き。その好きという気持ちが、彼女たちにとって応援として届けばいいなと思っている。そして、同時に無数のスパンコールが見せてくれる夢の中にでも、悲しみもある、不安もある、そのことを最近はおかしいと思わなくなりました。未来に向かっていく人の、未来の不確かさをその人と共に見つめたいって思っている。だから、そこにある不安は、痛みは、未来を見ることだって今は思います。好きだからこそある痛みを、好きの未熟さじゃなくて鮮やかさとして書いてみたい。これはそんな連載です。

 もっと早く出会っておけばと思うことはあっても、同時に必ず、あの時に出会ったのがきっと最良だったんだ、とも思う。早くに出会えば見られる公演数も多いのだから、それが一番いいような気も確かにするけれど、やっぱり、初めて見たその人が「あの公演のあの役」だったという事実は、自分がそのジャンルに出会うタイミングによって生み出された、私だけの奇跡なんだ。どうせハマるなら早くに知った方がいい、という話を聞くたびに、ある側面では確かにそうかもしれないけど、でも、ほんとはいつだっていいんじゃないかなぁって考えてしまう。子供の頃から宝塚を見ている、というのはとても素敵だ、そして大人になってからでも定年退職後でも変わらず、同じくらい素敵だと思う。出会うタイミングはみんなひとつしか選べない。そしてそれはどれもが最高で他に変えられるものではないはず。無限にある宝石から、運命が、一つを選んでる。どれが一番いいかなんて別にないはずなんだ。

(イラスト◎北澤平祐)

 出会えるってそれだけで素晴らしく、タイミングはどんなタイミングでも、その時にしかない唯一無二の巡り合いがあるという点で、特別だ。私は大人になってから宝塚を好きになったから、今応援してる人の新人公演や若手時代を見れたことはないし、過去の映像で好きになった人がもう退団していたこともある。やっぱり実際に見た人が羨ましいな~と思うことは多いけど、同じくらい、今この時に出会っていなかったら、私はこんなふうにこの人を好きになったかはわからないな、とも思うんだ。どんな巡り合わせでもどんなタイミングでも絶対に同じ人を好きになった!というのはロマンチックだし、ものすごく好きだ、という気持ちの証明にもなる気がして、ついそんな言い方をしたくなるけれど、でもあの公演のあの役のあの瞬間が私は大好きで、あのとき、私はこの人を初めて知って、それから全てが変わったんだという事実は、どんな「いつであろうが好きになった」よりも強くて、きらめいていると感じる。その事実こそが強固であることを、本当に全てが変わってしまった私だけが知っている。あの日の出会いは、私の人生のいつまでも消えることのない一場面で、私のこれまでの人生とも確実に繋がっている。単独では捉えられない出来事なんだ。きっと、この作品だったからとかこの役だったからとかだけでなく、あの日の私だったから、というのもとても大きいはずだ。あの日の私の感性だったから、あの日までの私の日々があったから、私の人生はその瞬間に変わった。そのタイミングでなくても好きになった、とは言えないし、私が私という人じゃなくてもその人を好きになったとも言えない。私は私だったから、この人が好きになった。そして、それこそが、その人への最大の愛情だと思う。私の歩んできた人生の全てがその瞬間の感情の伏線になっている。永遠や絶対を約束するより、それは私だけの本当になる。私の全てで証明した愛情になるんだ。全て、一期一会です。今の私じゃないと、今の「好き」はない。今の私にしか生まれ得ない感情だからこそ、この「好き」を、私は信じられるのだ。