2023年、中公文庫は創刊50周年を迎えました。その記念企画として、本連載では「50歳からのおすすめ本」を著名人の方に伺っていきます。「人生100年時代」において、50歳は折り返し地点。中公文庫も、次の50年へ――。50歳からの新たなスタートを支え、生き方のヒントをくれる一冊とは? 最終回となる第50回は、作家の小川洋子さんにうかがいます。

小川洋子(おがわ・ようこ)

1962年、岡山市生まれ。88年、「揚羽蝶が壊れる時」で海燕新人文学賞、91年、「妊娠カレンダー」で芥川賞、2004年、『博士の愛した数式』で読売文学賞および本屋大賞、『ブラフマンの埋葬』で泉鏡花文学賞、06年、『ミーナの行進』で谷崎潤一郎賞、13年、『ことり』で芸術選奨文部科学大臣賞、20年、『小箱』で野間文芸賞を受賞。21年、菊池寛賞受賞、紫綬褒章受章。その他の小説作品に『密やかな結晶』『猫を抱いて象と泳ぐ』『琥珀のまたたき』『約束された移動』『掌に眠る舞台』などがある。

一行でも小説を書くべきだ、と自分を脅迫していた四十代

五十代になって初めて、舞台の面白さに目覚めた。それまでは、子育てと執筆で精一杯だった。仕事で上京した時、ちょっと時間を作ってお芝居を、などという考えは浮かびもせず、とにかく一本でも早い新幹線に乗って帰らなければと、ただひたすらに焦っていた。

今から振り返ってみれば、そこまできりきり舞いする必要もなかったのにと思う。もっとゆったり構え、広い心で人生を楽しんだとしても、罰は当たらなかっただろう。その余裕が、自分の書く小説に思いも寄らない光を与えてくれたかもしれない。しかし当時は、趣味に時間を使うくらいなら、一行でも小説を書くべきだ、と自分で自分を脅迫していた。

ところがある日、ふと気づくのである。両親は見送った。犬も文鳥も死んだ。息子は巣立った。ようやく朝から晩まで、好きなだけ小説の書ける時が、やって来たのだ。

それなのに、なぜか空しい。さあ、いくらでも時間はあるぞ、書け、書くんだ、と自分を鼓舞してみても、元気が出ない。所詮自分には、一日中小説を書き続ける能力も体力もなかったのだ。

そんな時に私を救ってくれたのが舞台だった。生身の人間が舞台上で発する言葉と、小説の言葉の間に、これほどの違いがあるということにまず驚いた。小説世界の中に記された言葉は、無音のまま、たった一人の読者の胸に音色を響かせる。役者の言葉は、肉体や音楽や装置や、さまざまな装飾に彩られながら、その日、その時集まった観客だけが共有できる秘密の意味を持つ。

そして私は初めて、戯曲を読む楽しみを知った。それまで、あらゆるジャンルの本を先入観なしに読んできたつもりだったが、戯曲だけにはなぜか手がのびなかった。舞台を観ないで本だけ読んでも面白くないだろうと思い込んでいた。大きな誤解だった。