かつての「お殿様」は今

天に願いが届いたのか、数年前に夫が脳梗塞を起こした。命に別状はなかったが、後遺症でスムーズに歩けなくなった。リビングからトイレに行くわずか3メートルも、ゆっくりとしか歩けない。お風呂も介助がないと入れない。「やっとチャンスがきた」と礼子さんは確信した。

一軒家の2階が寝室だったが、夫が階段を上がれなくなったため夫婦別寝にした。夜中に夫から呼ばれても、気づかないふりをする。

礼子さんが出かける時は、いつも夫が座るソファから少し離れたところに、お茶のセットを置いていく。手が届きそうで届かないところにわざと置く。トイレに立つ以外に歩かなくなった夫にとって、お茶を淹れるために腰を上げるのは強いストレスになる。

風呂好きの夫だったが、入浴介助をするのは一苦労。はじめは週3日ほど風呂に入れたが、今は1~2日だけ。《お殿様》だった夫がだんだんとみすぼらしくなっていく。最近では、怒鳴り散らす気力も衰えてきた。もはや夫は恐れる対象ではない。

一方の礼子さんは、今までの時間を取り戻すように、身ぎれいにして昔の友達との再会を果たしている。花が咲くのは夫の愚痴。友人は、「夫の歯ブラシでトイレを磨いて、そのまま戻しておくとスカッと気分爽快だ」と言う。「ちょっと興味があるかもしれないわ」と礼子さんもニヤリ。

「私は十分やってきた。どうせ、もともと他人。夫に縛られて終わりたくない」と、夫が完全な寝たきりになった時のために、礼子さんは介護施設を探している。


【ルポ】夫は気づかない妻の積年の恨み
【1】「俺のめしは?」の言葉に、完全に愛想が尽きて《幸子さんの場合》
【2】要介護になった夫は、もはや恐れる対象ではない《礼子さんの場合》
【3】いつか本当の「未亡人」になりたい《聡子さんの場合》