土井さんの提案する「一汁一菜」(『一汁一菜でよいという提案』より、著者提供)

毎日、料理の発見を一緒にする

かくいう私も、結婚当初は忙しくてなかなか家庭を顧みられませんでした。いざ台所に立ったらあれこれうるさいこと言いましたしね。プロの料理人として、家の台所に入る時でも常に気合が入っていた夫なんてかなわない、妻にとってさぞ邪魔だったと思います。
「自分は日本一の『味吉兆』で料理人をしている」、その自負を胸に家の台所に入って、すでに盛り付けた器の使い方なんかにも口を出しますしね。

とはいえ、妻の料理はとてもおいしいので、僕は妻の料理にダメ出しをしたことはありません。妻は、「おいしい瞬間」を知っている人です。「これなに?どうやって作ったの」と聞くこともありますよ。そうすると結構な確率で「あなたが考えたやり方でしょう」と言われるのですが、自分ではこんなん初めてやと思うわけです。例えば、湯豆腐の漬け汁(土佐醤油)にしても、彼女は出来立てを食べさせてくれるんです。

不味くなる暇がありませんから、作りたていうのは、とびきりおいしいもんなんです。妻が何気ない発想ですること(お料理)にも、驚かされることが時折あります。今朝も、おみやげにいただいたひじきを水に戻して、その戻したてを、そのままサラダにしてくれました。さっと、オリーブオイルを絡めて、塩をぱらりと振ったものです。妻のすることから、料理の発見を一緒にできるんです。戻したてのフレッシュなひじきって、清らかな水の味が感じられるのです。なんでもないことかもしれませんが、それは私にとってスペシャルなことで、彼女から学ぶことはたくさんあります。本当のおいしさは、出来立てが食べられる家庭料理のなかにあると思います。

和食というのは、仏さま(仏像)を一木(いちぼく)から掘り出すのと同じです。尊いおいしさは、すでに一木(素材)の中にある。ですから、きちんと下ごしらえをして、食べられるようにすることが料理なんです。あとは素材のおいしさに任せればいい。そして食べる人が、塩をぱらり、醤油をたらりとすればいい。この頃は、味をつけることが料理、ということになっているようですが、それって西洋的な料理の考えですね。日本料理がマイナス的彫刻なら。西洋の料理(特にレストラン)はブロンズ像のようなプラス的彫刻、つまり表面的な味付けや見た目重視ということになります。プロの料理と家庭料理を混同することもそうですが、その両面性を持つ現代の私たちは、西洋と日本の思考を区別して、いかにあるべきかを整理して考えるべきですね。