人を“条件で見る”ことには抵抗感

翔が公園で一緒にいた男子は、同じ野球部の長谷川(坂上翔麻)なのだが、長谷川は、野球部内で「陸上部の誰が好みか」を言い合う流れになった時、思ってもいないのに「一番左の子」と答えたことを翔に話す。

彼は、「俺ああいう話から下ネタになる流れが苦手でさ、でもみんなに合わせないとかなって思っちゃって」と言う。翔が「男であることはいい、男っぽく振る舞うとか、乱暴なのが嫌い」と言うシーンもあって、翔も長谷川も、“ホモソノリ”(ホモソーシャルのノリ)が苦手なのだ。

私は、「好きなタイプは?」というお決まりの質問に、いつもうまく答えられなかった。好きなタイプってなんだろう。そもそもタイプで人を好きになるもの?好きになった人がタイプなんじゃないの?もちろん、好きになった人を振り返ると、なんとなくこういう感じというのが共通していたり、付き合う上で譲れない条件があって、それを考慮してこういうタイプが好き、と言っているのかもしれない。

ただ、人を“条件で見る”ことには、やはりどこか抵抗感がある。人は、学歴・年収・顔・職業みたいな条件が歩いているんじゃなくて、それぞれまったく違う存在で、その人にしかない個性や価値がある。それなのに、条件でその人を語るって、まるで棚に並んだ商品を、パッケージはどうだ、値段はどうだ、と値踏みするみたい。商品棚に整列された人間の個体差や核となる人格には目もくれず、その規格だけが見られる。

写真提供◎AC

以前、恋愛ドラマを見ていたら、こんなシーンがあった。年収や職業といった条件がいい人にロックオンし、アタックした後、相手の(よくない意味で)意外な一面が見えたり、条件が思ったよりよくないことがわかると、一瞬で態度を豹変させ、鞍替えするのだ。その様子を見て、本当に相手を、自分の価値を高めてくれるかという条件でしか見ていないんだなと思った。条件で人を見て、人を「記号化」することって、人をもの扱いすることと地続きな気がする。