MARUU=イラスト
阿川佐和子さんが『婦人公論』で好評連載中のエッセイ「見上げれば三日月」。阿川さんはNHKのドラマを観ていると、しばらく大阪弁が抜けなくなるそうで――。
※本記事は『婦人公論』2024年3月号に掲載されたものです

寒い季節の楽しみの一つに、富士山鑑賞がある。

特別にどこかへ出かけるわけではない。朝、起きて、ベッドから這い出して、カーテンを開けたときに富士山の姿が見えると、それだけで晴れやかな気持になる。よし、今日も頑張るぞ。エネルギーが湧いてくる。

昨春に引っ越しをして、久しぶりに西向きの窓に恵まれた。親元を離れて一人暮らしを始めて以来、途中、アメリカのワシントンD.C.で一年間生活をしたことを除くと、七回目の引っ越しとなった。

過去六ヶ所の住まいのうち、富士山を望むことができたアパートは前半の四ヶ所。今度の引っ越し前に住んでいたところと、その前の部屋は南東向きで、富士山も夕日も拝むことができなかった。

物件を探すとき、家賃、環境、日当たり、立地など、他の条件を優先すると、どうしても「西の眺望」を諦めざるをえない事態となったからだ。富士山と夕日を見ないで過ごした月日が二十年。実に二十年ぶりのシアワセを、今、まさに満喫している最中だ。

とはいえ、周囲に高層ビルが林立しているため、我が富士山は、西方面に立つ細長いビルの横から、かろうじて右半分がちょこっと見える程度である。

やっぱり富士山は遠いなあ。

しかも冬とはいえ、時間が経つにつれてモヤが増えていくのか、早朝のときのようにはくっきりはっきり見ることが叶わない。

まして暖かい季節は、乾燥している冬場とは空気の様子が違うらしい。富士山自体がモヤや雲の陰に隠れ、見えることは稀である。