根強い苦痛神話

ウケがいいのは、何でも前向きに捉え、他人を批判せず、常に努力で困難を乗り越えていく人だ。そういう人がいたっていい。一方で、困難をありのままに受け止め、おかしいと訴える人だってこの社会には必要なのだ。だれもが困難を前向きに捉え、乗り越え、「それがあったから今の自分がある」なんてお決まりのセリフを吐く必要なんてない。「苦しい」「今も克服できない」「それはおかしい」とはっきり言う。きっとウケはよくないやり方だが、その人にはその人の存在価値がある。そして、私はどちらかと言えば後者だ、という自覚がある。だからよく「他責思考」なんて揶揄もされる。

貧困を経験したから強くなったか?と聞かれたら、私はNOと答えるだろう。経験しなくていいのなら、しない方がよかったのだ。もちろん、きっと弱者の立場をより具体的に知ることができたし、その立場を経験したからこそ持てた視点だってたくさんある。でも、それでも、貧困ゆえに奪われた機会や経験はあまりに多すぎた。

体罰を含む厳しい指導を経験した人が、「あの苦しみがあったから、他の苦しいことも乗り越えられた」「一番しんどいことを経験したから、この先何があっても大丈夫」みたいに、その経験を美化するのを目にすることがある。体罰による影響を本人も自覚することは難しく、体罰をしてきた人に親愛の情を抱くことすらある。「あの経験があったから、今の自分がある」その言葉に偽りはないのかもしれないが、ぶっちゃけそう思わなければやってられない、という部分も大きいように感じる。

被害を被害として受け止めることはとても力のいること。自分の存在が根底から揺らぐようなことなのだ。意味のない苦痛だったと自覚してしまえば、どう心を整理していいかいよいよわからなくなってしまう。だから「あれには意味があったのだ」、と無理矢理思い込んでいるということもあるのではないかと推察する。

日本にはまだまだ根強い苦痛神話がある。人は苦しい思いをしてこそ成長するのだ、と。私はアンチ苦痛神話派だ。人は無暗に苦しまなくたって、安全な場所で挑戦することで健全に成長できる。敢えて言いたい、苦しい環境にいるなら、打ち勝つ必要なんてない。病気や貧困は苦しいものだ。そこから何かを学ぶ必要なんてない。苦しいことは苦しい、ということそのものに、きっと価値がある。

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