一瞬静まり返り、供養が始まる。住職の読経が流れると、参列者はひとりひとり線香をあげる。私はミミやエルサの持ち主ではないけれど、「友人の子どもを支えてくれてありがとう」と、何度も心の中で唱える。
それにしても、読経が進むにつれ、人形たちの顔が華やぐように見えたのは、私だけだろうか……?
「人の想いを受け止めるお役目を終えて、一息ついているお人形さんのお顔、明るくなったと感じませんか?」
住職の法話の第一声で、人形たちの微妙な変化を感じたのは、私だけではないと確信した。
供養された人形のお焚き上げは、年に1度、日光のお寺・尊星王院でおごそかに行われるという。
本寿院では人形のほか、遺品や思い出の品の供養も営む。「自分には不要だが、故人にとっては貴重だったに違いない」と慮(おもんばか)る遺族が、アルバムや日記など遺品一式を持参することも。思い出供養では、つらい過去と決別し、新たな一歩を踏み出すための儀式としてとらえ、結婚指輪や元彼と使用していたものなどを持ち込む人も後を絶たないとか。
「日本人は、四季折々の自然と共存して、自然が生み出すすべての恵みに感謝し敬い続けてきました。だからこそ、たとえ嫌なものであっても『捨てにくい』と思う独自の感性が宿っているのです。ご供養を通じて、モノの良し悪しにかかわらず感謝を捧げると同時に、ご縁があって出会い、それによって自分が成長し、そして生かされているということに、気づいていただけたら幸いです」
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この世に無数に存在するモノたち。その中から自分の元へ訪れる確率は、奇跡と言ってもいいはずだ。とすれば、手放すと決めても感謝の心をもって別れたい。いや、嫌いな人が残していったモノに感謝するほど私は心が広くないが、せめて「捨てて、ごめんね」という言葉は伝えたい。