父がいかに八ヶ岳を好きかわかった

しかし開業から1年ほどして、複数のスタッフが一度に辞めてしまったことがありました。母は素人社長だし、父も経営のことはさっぱり。兄は大学卒業後、園芸家の修業に出ていて不在でした。そこで僕が大学を1年休学し、倶楽部を手伝うことにしたのです。

当時の僕の決断は、父の好きな話の一つ(笑)。インタビューでよく「歴史学を学ぶ次男は海外留学を希望したけれど、その留学先を『八ヶ岳にする』と言ってくれた」などと語っているのですが、これは話をずいぶん美化しています。

それまでも繁忙期に駐車場係くらいはしていて、それもまあ、手伝わないと「柳生家の人間じゃない」などと言われそうだったから。休学したのは困り果てている母が不憫で、自分にできることはなにかと考えただけなんです。

でもその1年間は、僕にとって貴重な社会勉強の時間になりました。ギャラリーの店番からレストランの食材調達までなんでもしましたから。

一度、コーヒーを淹れている最中に食材を納入する業者さんがきたので、「あ、その辺に置いておいてください」と言ったんです。それきり忘れてしまった。あとで荷物を開けたら冷凍品だった、ということもありました。

父と過ごす時間が増えたことで、父がいかに八ヶ岳を好きかがわかったのもよかったように思います。それこそSDGsという言葉ができる前から、持続可能な自然環境の実現を真剣に考え、実践していた。それをそばで感じられる1年でした。

<後編につづく

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