私たちの声はよく似ているのでどれも混ざる、来年も私たちは五人でいるだろう――。
 同じ高校に通う仲良し五人組、ハルア、ナノパ、ダユカ、シイシイ、ウガトワ。同じ時を過ごしていても、同じ想いを抱いているとは限らない。少女たちの瞳を通して、日常を丁寧に描き出す連載小説。

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2 ナノパ
 
 生物室のガラス棚には古い骨古い羽根、濁ったり粉になったり汚れつつ展示されている。「生き物って怖くて気持ち悪いと思っちゃうから、ない方がマシかも」「この骨を見て骨のこと学びたいと思わないかも」と私とダユカで言い合う。文化祭のダンスステージの本番後で、着替え用に割り当てられた生物室は、もうこの二人だけになっている。日陰で一階で、学校で最も湿った部屋で、私はダユカがメイク直しを終えるのを待つ、細かく動く指を見る。
 ダンスは気持ちが良かった、踊っているうちに大声で笑い出しそうになった。暗闇から浮かび上がり、周りと動きを合わせて、同じ動きなら息を吸うのも吐くのも同じタイミングになって、本当に音楽と一体になったという瞬間もあった。外の廊下から声が聞こえる、担任の声なので、私たちは耳を澄ます。「顧問三人いて、毎週日曜一人は息子の野球の試合、一人は自分のダンススクールって、あなたがダンスして何になるのっていう。本当ダンスして何か人のためになるのって感じ。早く私より若い何も分かってないような子か、バスケ本チャンでやってる人が来てほしい、私も誰かに押し付けたい。私もダンス習いたい、いや全然習いたくないけど」と若い湯河ちゃんがもっと若い今年来た先生に嘆いている。
 あの二人は仲良いんだ、でも湯河ちゃんは信じ過ぎ、その先生はその話を誰かにしないかと心配になってくる、そんなに人の前で油断できるものか。私はその顧問の三人の誰にもなりたくないなと思って、その話の中の誰かになるなら、母親に野球を見に来てもらう息子くらいしか、なりたい登場人物はいないと、等しくどれも意味なく、と思ってみる。どの役もそういう順番が巡ってくるという、ただそれだけの話か。
 先生たちの声は遠ざかっていく。「かわいそー湯河ちゃん、そしてバスケ部」「ここにいたのバスケ部だったら気まずかったね」「でもバスケ部の子たちもさ、練習多い揉め事多いって文句言ってるじゃん、じゃあ誰が得してるわけ、あの場で」「ナノパのダンス見てたって?先輩」とダユカが聞いてくる。「いや、劇のリハの集合と被ってたっぽいから」「それはそれは。でも先輩の劇は見れそうだね」動いて崩れたメイクが、顔の上でまた築かれていく。踊りと違って劇なら同じ動きもしないから、私は先輩を遠くからでも他の人と区別できるだろう、ダンスなら無理だっただろう。一体となったのを、一塊として褒めるしかできないだろう。

 外に走りに行ってくる、とママに言い置いて、足首を回してから走る。風が冷たくて鼻水が出る、冬のマラソンなんて鼻水との戦いだしな。得意なことは、自分でも驚くほど上手くできる、腕と脚交互に出し、そんなに各人で大差ない動きだろうに、何で速い遅いの違いが出るのか不思議だ。一生の中で今が最も速いだろう、体は今より上手く使えなくなっていくばかりだろうと思いながら走っている。病気のおばあちゃんがいるからそう思う。
 陽が邪魔でサングラスをつけて走るので、景色はどれも同じような色になる。ママと散歩している時ママは、目に入る一つひとつに目を止めて、季節の変化など感じているようで、大人になればそういうものか、暇なのか敏感に感じやすいのか、細かな変化に気づき、思い出が増えるほど見るものは味わい深くなり、考えが記憶を呼び考えが記憶となり、とやっていくんだろうか。私は景色など目に入らない、動きにしか目は止まらない。
 走って速いのほど、気持ちの良いことはない。小さな鼻と口からだけ空気を取り入れ、浮く手は軽く、親指は握り込まれたり外に出されたりし、着地に次ぐ着地、走っている時ほど遠近を意識することもない、服の布が肌に当たり、自分が服を今着ているというのも走る時しか思わない。鋭く吸う息で鼻が痛い、全身から空気を取り込めるなら、走るのももっと楽だろう。鼻炎だから昔は走るのは得意じゃなかった、鼻炎だから鼻の下の肌も荒れた。その原因がどんな結果を引き連れてくるのか、小さい頃なら何も上手く繋げられなかった。
 何でも近づけば迫り来る、過ぎ去るものは横に流れる、葉の揺れで風の向きを知る、いい呼吸を意識し、自分の呼吸を制する。生物の人体の授業とか心電図検査とか、運動以外で体の中を意識すると気持ち悪くなってくる、注射の後の体に巡る道筋を想像する、中で何か起こってる怖さに気づく。運動なら自分が体に働きかけられる、意志が体の力を上回るようで、こんなに体に血が巡るものを他に知らない。
 一人っ子だからママの関心は私一人に向いて、ハルアなんて親の再婚でいきなり弟妹が増えたんだから羨ましい、親の目は分散されるだろう、もう見られてそんなに嬉しくもない。習い事してその話題、真剣にスポーツしてその話題、とママには話題提供してるつもりだけどそれでは足りないんだろう、時間も過ぎていかない、恋バナくらいがママとはちょうどいい。進路の話よりは、人格の否定なんかには繋がりにくい気楽な話題で。
 先輩は今何考えてるんだろー、と私が友だちの輪の静寂の中呟けば、その予想憶測だけで、みんなで昼休み中楽しんだりできるのだから、恋ほど費用対効果のいい趣味もない、時間対効果はそこそこ悪いけど、少しでも暇があればできる、暇を暇と感じさせない。スポーツの話ではこうはいかないんだから、私の週末の全てを占める、ソフトボールの話題を出しても、グループ内で話は通じず、私の持つ知識や戦歴に興味も持たれず、会話は萎んでいくだけなんだから。
 そうなると予言性というのが、恋の話が人を惹きつける部分なんじゃないか。知識や経験のひけらかし、みんなの工夫の持ち寄り、軽い山あり谷あり、人と人との結びつきの実感、得られることは多いわけだ。ママも私に予言したく、友だちは私のに自分の恋を重ねて見てそれを予言としたく、みんな予言がしたいだけなんじゃないか、巫女にでもなりたいのか、巫女は予言しないか。
 未来のことを語れるから、こういう話は長く続くんじゃないか、ゴールに向かう爽快感もある。長い信号待ちで、え、ほんとですか??やば、という先輩への返事を、一つずつの吹き出しに打ち込む、LINE一通にお金がかかるならしないと思う。スマホは暗い画面になると指紋が目立って汚いので、画面を常に明るくしておきたくて続けているというような会話で。疑問で終わる文を一つでも入れれば、でも必ず答えが返ってくるとは、信じ合えるくらいの間柄にはなっている。春の球技大会で、誰に選べと言われたわけでもないのに、私の好みはああいう先輩と指差し、それで周りは華やぎ盛り上がり、実際にボールを投げる姿は良かったわけで、その先輩の知り合いを探す、偶然を装い出会う、最初のLINEを考える、そういうのを考えやっていくことは達成感もあり楽しかったわけで、でも私一人でなら決してやらなかった。
 ママからすればゴールは結婚の、友だちからすれば付き合うがゴール、いやその先もネタとしてどんどん面白くはなっていくのだから、キスあり触れ合いあり、別れるまでがゴール、私はどこにも辿り着きたくはなく、そうなるとゴールのないジョギングで、しかしこれでママや友だちと並走できているわけだ、景色に何か言いながら。日替わりの話題なんて他にそうそうないんだから、話題がなければ、会話なんてできないんだから。私にはソフトボールがあって良かった、いつかお別れする趣味だろうけど、ソフトの仲間とだって、話し合うのは未来のことばかり、私たちは予言をしてばかり。
 自分の荒い呼吸を楽しむ、大袈裟に肩で息をする。家に帰ればママは部屋で本を読んでいる、この人は娘のソフトの試合を、遠くのグラウンドじゃないなら少し顔出す程度の人だ、日曜毎週なんて来ない。長いこと見つめていなければ分からない個々の成長、積み重ね、応援の心強さなど知らないからだ。キッチンで水を飲んでいれば横に来て、ソフトも、受験前には辞めるか休むだろうしね、受験は大変だもん、菜乃(なの)ちゃんはヘルシーな魅力があるから、大学入ってからの方がモテるんだろうけどね、とママが言う。会話の流れを変えたく、さっきの先輩とのLINEを見せる。
 相談とも言えぬ相談、でも私が話したいのはこんなことではない。告白しちゃいなよ、何でも経験がものを言うよ、鉄は熱いうちに、でも先輩も今そんなんしてたら受験落ちるかもね、大学卒業までは付き合うなら同学年がいいんだよね、試練の時期が一緒の方が仲間って感じで、ソフトは引き止められるだろうけど、この冬には辞めてるだろうね、休むでもいいけど、辞めてOGとして行くのも行くだけで有難がられて楽しいもんね、でも先輩が先に大学生になっちゃうから、やっぱり付き合いは上手くいきづらい、とまたママが私に何か予言している。

 

井戸川射子の小説連載「曇りなく常に良く」一覧