松永クリニック号航海日誌
そもそも「正体」というのは、ページを開いたらわかりやすい言葉で「善」とか「悪」とか書いてあるようなものではないだろう。二言とか三言とかですぐに腑に落ちるようなものであるわけもない。要約してSNSで語れるほどシンプルなものでもない。もっと言えば、「正体」を照らすのはたった一筋の光などではありえない。
「正体」というのは、灯台がくるくると光を四方に放つように、たくさんの事物・事象・情動・情念の中に立った人間が間断なく目配せを続けることで、はじめて総体として見えてくる、複合情報だ。その「正体」を冠した本を、あの松永先生が書いたというのだからこれは見逃せないのである。
本書にはいったい何が書かれているか。開業時の資金繰り、スタッフを雇い始めるときのこと、大学病院の医者と市中病院の医者と開業医の違い。簡単に抜き出すとこういうことだ。しかし簡単に抜き出してしまうと本書のニュアンスは伝わらない。なぜなら松永先生は、ひとつひとつの出来事や要素をブログ的に置くのではなく、これらを有機的に繋げるからだ。豊富なエピソードが断片化されることなく、医師・松永正訓のあゆみとして連綿と書かれることで、あたかも精緻な点描の末に立体が浮き上がるかのように、複合情報としての「開業医の正体」が見えてくる。一部だけ抜き出すなんてもったいない。
本書から一貫して感じ取れるのは、いまだ定まらない未来に向けて、そのつど誠実に奮闘する松永先生たちの姿だ。昨今は、成功者が生存バイアスの終着点から過去を都合よく振り返ってメソッドを切り売りするような書き物があちこちにあふれているが、そういうのとは一線を画する。成功だけを選び取った回想録ではない。本書は期待と不安を進行形で書き取った航海日誌なのである。