「ただ〈飛びたい〉という一心で応募してしまったの」
資格 20―30歳身長一、五八米以上体重四五瓩―五二、五瓩迄
容姿端麗新制高校卒以上英会話可能東京在住の方
採用人員 12名履歴書写真上半身全身各一身長体重記載同封郵送
締切 八月二日(当社到着の事)面会日を通知する
東京都中央区銀座西八丁目一番地
電話銀座(五七)〇一〇三―四・〇八四五・四二二二・六三六一
日本航空株式会社創立事務所
この広告は昭和26年7月20日から22日にわたって、毎日、読売、産経、朝日、東京、日本経済新聞の各紙に掲載された。とはいっても8行だけのごく小さな広告で、これに目を留めるには、新聞を詳細に見ていなければわからないはずである。
日本はまだ占領下にあったものの、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約の締結がなり、国際的地位をやっと回復した時期だった。
前年6月には朝鮮戦争が起こり、この戦争が特需をうながし、経済は復興にむかいつつあった。この年の正月からNHKラジオで紅白歌合戦がはじまり、9月には名古屋、大阪などで民放の本放送がはじまった。ヴェネチア国際映画コンクールで黒澤明監督の「羅生門」がグランプリに輝いたのもこの年である。日本はようやく戦後の混乱と窮乏から抜け出そうとしていた。
悠子は日本航空のエアガール募集広告を眼にして、躊躇することなく応募した。この小さな広告を目にして、唐突に悠子の胸に「飛びたい」という欲求がわいた。戦後禁止された民間航空の再開は国民的関心事で、航空に関する政治的なやりとりなども新聞紙上を賑わわせていたのである。
小野悠子はまっすぐにわたしを見つめながら、その応募したころの気持ちを優しいおだやかな口調で語っている。
「エアガールがどんな仕事をするかなんて、まったく考えなかった。ただ〈飛びたい〉という一心で応募してしまったの」
これからは飛行機の時代である。日本航空は国内線をまず飛ぶが、国際線をもつことを視野にいれていることも知った。習得した英語も活かせる職場だろう。悠子が望んだまさに憧れの職業だった。悠子はさっそく履歴書などを送付した。
ところが広告の小ささにもかかわらず、さらに掲載から10日間だけの募集期間にもかかわらず、日本航空の創立事務所には1300通にのぼる履歴書が送付されたのである。