それから約50年後の2011年3月11日、東日本大震災という大きな地震に遭いました。あの日、私は1人で車を運転している最中でした。隣の市に住む高齢の姑と4月から同居をするために、当面の荷物を車に積んで山里の家に向かっていたのです。
山に入る最後の交差点、赤信号で停車した直後に地震は起きました。日頃、小さい揺れでもキャーッと怯える私が、あまりの揺れの大きさに声も出ず、ただ車内でじっと耐えるばかり。周囲の電線は縄飛びのように大きく上下に弾み、地面にしゃがみ込んでいる人が見えました。
長い揺れが収まった後、私は必死に運転を再開。約20分後に着くと、心配した夫と姑が外に出ていました。ほっとして携帯電話を確認すると、親戚や県外の知人から何件ものメールが。「怖かったけれど、大丈夫」と簡単に返信したものの、その時はまだ甚大な被害の状況を知らなかったのです。
その後も余震は収まりませんでした。家の玄関の塗装にはひび割れができ、中に入るのが躊躇われて車中でしばらく過ごすことに。ラジオでは女性アナウンサーが「沿岸部は壊滅的な被害」と繰り返し絶叫していて、不安が膨らんでいきます。仙台に住む子どもとは連絡がつかず、無事かどうか心配でたまりませんでした。
やがて外が真っ暗になり家に入りましたが、電気が使えず、懐中電灯とろうそくを集めました。着込めるだけ着て布団をかぶっても、寒くて震えが止まりません。早く夜が明けることだけを祈り続けていました。今思えば、あの震えは怖さからくるものだったのだと思います。