思い出の地が「壊滅的」な状態に
数日後、災害用伝言ダイヤルに子どもから連絡が入り、無事とわかりました。声が聴けて心からほっとしたのをよく覚えています。
電気が通ったのは4日後。震災前、たまたま私の実家に車で帰省する予定があり、ガソリンは満タン。その間1人になる姑のために食料も買い込んでいたので、停電中も家で過ごすことができたのです。
テレビがついて、被害の大きさを目の当たりにしました。その中でも陸前高田の海水浴場は、何度も遊びに行った思い出の地。松林と広い砂浜の美しい風景が目に浮かび、愕然としました。
夫も気がかりだったのでしょう。あの日から1ヵ月が経って、少しでもいいから支援がしたいと、2人で車を走らせました。地震直後の道には、いくつもの大きな亀裂や段差が。あの時落石にも遭わず、陥没した道路にもはまらなかったことは幸いだったとしか言いようがありません。
隙間を縫って陸前高田の市内を進むにつれ、心臓がどきどきしました。車の中では、お互い目にしているものを言葉にできず、終始無言。破壊された物がうずたかく積みあがり、ラジオで繰り返し耳にした「壊滅的」という意味が理解できました。津波がこれほどまでの破壊力を持つとは……。
日常生活が営まれていたとは思えないような、モノクロの町。窓を開けた時の潮まじりの混濁した臭いだけが鮮明で、現実を突きつけられるようでした。
あれから13年が経ち、ずいぶん日常をとり戻しました。二度も大きな地震を体験した私は、いつ何が起きるかわからない、ということは忘れていません。
山間部では、電気や水道が止まっても、とりあえず薪を集め、山から水を引くことができる。たった1パックの納豆を分けて食べた、あの時の美味しさとありがたさを忘れずに、不便でも安心できるこの田舎暮らしを続けていくつもりです。