《J・S・バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ》前橋汀子

 

しなやかに世界と向き合う

前橋汀子(ていこ)が、ヴァイオリニストにとって最も大切なレパートリーのひとつ、J・S・バッハ《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ》全曲を、30年ぶりに再録音した。

1943年、戦中生まれの前橋は、戦後復興のただ中、5歳でヴァイオリンを始めた。やがて、ロシア革命中に日本人の学者と結婚して日本に移ったロシア人ヴァイオリニスト、小野アンナに師事。その後は、戦後日本の音楽界を牽引する多くの人材を育てた「桐朋学園子供のための音楽教室」で学んだ。転機が訪れたのは、高校2年のとき。サンクトペテルブルク音楽院が創立100周年記念事業として、共産圏以外から初めて留学生を招くことになり、前橋はその枠に選ばれてソ連留学を果たしたのだ。今や留学が当たり前の時代だが、当時は違う。社会の流れや運、そして何より強い想いが実り、前橋は世界への第一歩を踏み出した。

その後アメリカやヨーロッパで過ごし、80年に帰国。以来日本を拠点に、国際的ヴァイオリニストのパイオニアとして、華々しい活動を続けてきた。

前橋が前回バッハの同作品を録音したのは、89年。それからの演奏経験、多様なバッハ作品に触れるなかで培ったものをもって、再び録音に取り組みたいと感じたのだという。一音一音嚙みしめるように鳴らされる深い響きが、心に染み込む。パルティータ第2番終曲の有名な〈シャコンヌ〉は、技巧的に難しい曲だということを忘れる、圧倒的な優雅さと品格を味わえる演奏。円熟した音が、やさしく、力強く語りかけてくる。

ジャケット写真は、長年前橋を撮り続けている篠山紀信によるもの。気品に満ちた演奏とイメージが重なる。

 

《J・S・バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ​》
前橋汀子
ソニー 4500円

****

 

 

《ZINGARO!!!》尾池亜美 & Ensemble FOVE

 

心から楽しんで演奏していることが伝わる

次に紹介するのは、前橋汀子が一人孤独に音楽に向き合うバッハの無伴奏作品とはあらゆる意味で対照的、また別の魅力を持つ録音。

前橋の世代が扉を開いたことで、今やたくさんの日本人演奏家が世界で活躍している。それも欧米を追うレベルはとうに超え、クリエイティブな活動で音楽界に刺激を与えるまでになった。

ヴァイオリニストの尾池亜美をフィーチャーしたEnsemble FOVE(アンサンブル・フォーヴ)による新譜《ZINGARO!!!》には、新しい風を巻き起こす次世代の演奏家の心意気が詰まっている。

Ensemble FOVEは、テレビアニメ『ユーリ!!!on ICE』のスコアや米津玄師の作品の共同アレンジも手がける気鋭の作曲家、坂東祐大(ばんどうゆうた)が代表をつとめる演奏集団。人気サクソフォン奏者の上野耕平や国際オーボエコンクールで日本人初優勝を果たした荒木奏美(かなみ)、エストニア祝祭管弦楽団のヴィオラ奏者、安達真理など、実力のある若手が顔を揃える。

収録曲は、躍動感あふれるロマの音楽や、それに影響を受けた作曲家の小品が中心。序盤の〈ツィゴイネルワイゼン〉から、情熱的に歌う尾池のヴァイオリンと分厚くパワフルなアンサンブルが、これから繰り広げられる刺激的なストーリーを予感させる。

湧き出すような感情と自然な揺らぎで奏でられる〈黒い瞳〉、新鮮なアレンジが施されたブラームス〈ハンガリー舞曲〉。各奏者が自発的な感覚をもって、音をピタリとよせながらアンサンブルを紡いでいく。ヴァイオリン、フルート、バソン、サクソフォンが鳥の声を模す短いトラックは、このなんでもありなアルバムの自由さを表すようだ。

曲は各奏者を想定して編曲されており、彼ら自身、心から楽しんで演奏していることが伝わる。才能ある仲間が集う喜びにあふれたアルバムだ。

《ZINGARO!!!》
尾池亜美 & Ensemble FOVE
ナクソス 3000円