『よその島』著:井上荒野

 

離島で暮らしはじめた3人に流れる不穏な空気

〈蕗子の手はまだじゅうぶんにみずみずしかった。/だがこれは殺人者の手だ、と碇谷芳朗は思った〉。

なんという不穏な空気、サスペンスフルな幕開けなのだろう。

主な登場人物は、骨董店店主の碇谷芳朗(いかりやよしろう)とその妻・蕗子(ふきこ)、そして友人で作家の野呂春夫。ともに70代の3人は、離島に移住し共同生活をすることに決める。これから住む一軒家を前にして見てしまった妻の手を、殺人者のそれだと芳朗は確信するのだ。そして住み込みの若い家政婦、仙崎みゆかとその息子を交え、彼らの第二の人生、島暮らしがはじまる。

物語はこの碇谷芳朗、蕗子、野呂春夫の3人の視点で交互に語られ進んでいく。最初のうちこそ3人は美しい風景に高揚していたが、やがて穏やかでどこか気だるい日常になる。ゆるやかな時間のなか、それぞれが内なる物思いの深みへと下りていくのだ。そこから、彼らが長い間抱えていた秘密や疑惑が少しずつあらわになる。

あの時の浮気と裏切り。あの日、不倫相手の部屋で芳朗が見たもの。一線を越えた(かもしれない)妻の手。そして野呂の別れた妻と息子への後ろめたさと本心――3人の過去と現在、妄想と現実、嘘と真実が交錯し、溶け合い、しだいになにが本当のことなのかわからなくなっていくのだ。彼らの回想の根底にあるのは、老いと病と忘却への怯えであり、「死」の影がしのびよっていることがわかる。

「よその島」の「よそ」は近いようで遠い。たとえ夫婦であっても「よそ」ものである以上、秘密を暴こうと立ち入ってはいけないものなのかもしれない。どこまでもしなやかで洗練された文体。不穏と甘美がなめらかに溶け合う老境文学の佳品だ。

『よその島』
著◎井上荒野
中央公論新社 1700円