ベートーヴェンの複雑で美しいエネルギー
国際的な人的交流が当たり前となっていた現代、新型コロナウイルスの脅威により突然国境が閉ざされ、人の集いが避けられて、クラシック音楽業界も苦境にある。一方で人は、困難や孤独を乗り越えるため、音楽に救いを求めるものだ。
人類が手を取り合い、暗闇を抜けて光をめざすさまを音楽で表現した作曲家といえば、ベートーヴェンが思い浮かぶ。生誕250年の今年、数々の録音がリリースされているが、なかでも話題をさらっているのが、クルレンツィス指揮、ムジカエテルナによる〈交響曲第5番〉だ。
1972年ギリシャ生まれのクルレンツィスがムジカエテルナを結成したのは、2004年。ロシアのペルミを拠点に、彼と楽団員が共同生活を送り音楽を作るところから発展したというこの楽団は、慣例にとらわれない斬新な演奏で、音楽ファンの感情や思い込みを揺さぶってきた。
無数に録音が存在する〈交響曲第5番〉でも、クルレンツィスは演奏史における習慣を再検証することにより、「伝統という豪華な石棺の外にある演奏家自身の直感という荒野に向かって歩き出す」ことを試みたと語る。長らく作品と結びつけられてきた「運命が扉を叩く」という思想を切り離し、新しい何かを見つけるには、20年の歳月を要した。
冒頭の"有名なモチーフ"から、過去耳にしてきた多くの「運命」とは異なり、生々しく厳しい音で始まる。ベートーヴェンが楽譜に託したリズム、ハーモニー、メロディが胸に突き刺さる。終楽章の力強い音楽すら、これが意味するのは本当に人類の勝利なのだろうかと疑問を抱くような、複雑な光を放つ。
クルレンツィス自身、ベートーヴェンが時代の殉教者として後世に残した光は、「品行方正な美しさなどではなく、不道徳で、人を元気づけ刺激する美しさという光」だと語っているので、爽やかで前向きな感情以外の後味が残るのは当然かもしれない。聴いてどう感じるか。自分の内面を見つめる機会をくれるアルバムだ。
クルレンツィス&ムジカエテルナ
ソニー 2200円
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かたや、期待に違わぬ心地よく前向きな後味を残すのが、ピアノのアルゲリッチと小澤征爾指揮、水戸室内管弦楽団によるベートーヴェン。〈ピアノ協奏曲第2番〉は、ベートーヴェン初期の作品。30代後半の充実期に書かれた〈交響曲第5番〉と印象が違うのは当然だが、やはり演奏者のアプローチの差異は影響を及ぼす。
戦前・戦中生まれの小澤とアルゲリッチは、ベートーヴェンの音楽の美しいエネルギーを丁寧にすくい取り、あたたかくみずみずしい音で表現する。オーケストラとピアノの戯れるような掛け合いが生む音楽は、厳しい境遇にある人にも優しく寄り添う。自己批判を促して鼓舞するのとは、別の励まし方だ。音楽への救いの求め方が違うのは、世代の差に由来するところもあるのかもしれない。
水戸室内管弦楽団とアルゲリッチの初共演は、2017年のこと。小澤の指揮のもと両者はすばらしい相性を見せ、継続してベートーヴェンに取り組むようになった。小澤の体調不良によるキャンセルでプログラムを変更した回を経て、2019年5月に実現した再共演を収録したのが、このアルバムだ。併せて、グリーグ《ホルベアの時代から》や、アルゲリッチの旭日中綬章受章祝いに小澤が指揮したモーツァルト〈ディヴェルティメント〉と、三者に関わりのある曲目が収められている。
クルレンツィス、小澤征爾&アルゲリッチ、どちらも2000年の4、5月に日本公演が予定されていたが、中止となった。不安な日々が続くが、今は録音でベートーヴェンから力をもらい、生の演奏が聴ける日を待ちたい。
小澤征爾&アルゲリッチ
ユニバーサル 3000円