「今は後輩がずいぶん入ってきていますし、20代もいます。演者が若返ると、お客さんも若返る。」(奈々福さん)

編集者、女優から「話芸」の道へ

重松 蘭さんは女優、ナレーターのお仕事からの転身だし、奈々福さんは、長年、出版社の編集者だった。そこからこの世界に飛び込まれたわけですよね。

奈々福 私は浪曲師になるなんて微塵も思わなくて。出版社にいたとき、会社の近くにあった日本浪曲協会の三味線教室で習い事をしてみようと、うっかり足を踏み入れたのがはじまりです。30歳のときでした。三味線を習っているうちに、この世界に引きずり込まれてしまったんです。

重松 むしろ受け身だった?

奈々福 最初はそう。「浪曲って時代錯誤~」と思ってましたもの。それに、当時の浪曲師は10代からこの世界一筋の人が多かったんです。私の入門は遅すぎた。でもだんだんと浪曲の魅力がわかってきて、三味線弾きから浪曲師となり、今は、この道は定められていたのではないかと思うほどです。

 それはおねえさん、天命だったんですよ。

奈々福 入門したずっとあとになって、祖母のいちばん上のお兄さん、私の大伯父が浪曲師だったと知りました。それまでは大伯父といえば、芸で身を持ち崩して、妻と子に迷惑をかけた人、と親戚から聞いていたんです。

重松 それが、同じ世界の大先輩だった。びっくりしたでしょう。

奈々福 はい。それとですね、重松先生にこうしてお会いしていますけど、私、「重松」という名前にとても萌えるんですよ。私の大好きな大正時代の浪曲の超名人、それが木村重松という人なんです。

重松 シゲマツ……。

奈々福 はい。しかも、大伯父は、その重松先生の弟子だったんです。

重松 いやあ、それ自体がひとつのドラマになっている。蘭さんのこの世界へのきっかけは?

 たまたまテレビでのちの師匠となる神田紅の文芸講談「滝の白糸」を観て、聞き入ってしまったんです。ひとりで演じ、人々をいにしえの世界へといざなうストーリーテラーになれる。自分もやってみたいなと。

重松 先にもうかがいましたが、蘭さんのように、別のお仕事をしていて、こちらの世界に入ってこられる方が多いんですね。

 講談のマクラでも言うんですけど、女性で人生、ひと山、ふた山、み山、越えたような人が入門してくる。お客さまに聞かれます。「なんでそんなに女性ばかりが?」。こう答えます。「行き場のない人が来るんじゃないでしょうか」。

奈々福 問題発言~!(笑)

 「……私を筆頭に」。(笑)

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