【選評】
「人間の純情」 浅田次郎
読みながらしばしば膝を打った。小説とは、元来こうしたものであったはずだ、と思ったからである。必要最小限の言葉でいかに大きな世界を描くか。日本文学の極意はいつの時代もそれであったのに、このごろになって私たちは、重厚長大で写実的で過剰な小説を目指すようになった。社会環境の変化によって文章表現の特性を見失ったのである。
そうした今日にあって青山文平氏の『底惚れ』は、良く言うならまさに神の顕現を見るような、悪く言うなら古い時代から迷い出たかのような小説であった。
いずれにせよ、こうでなくてはならぬのである。作者の文章は歌のごとく句のごとく、ぎりぎりまで削ぎ落とされて無駄がない。それでいて痩せても枯れてもいない艶がある。読者は一行一句読み落とせぬ緊張感をもって物語を追い、小説という噓の世界に知らず搦め取られてゆく。作者が言葉少なに語り続けるのは、小説でしか表現することのできぬ人の心の闇である。これぞ読書の醍醐味と言えよう。
また、本作は江戸の世話物を扱いながら人情話に落つることがなかった。江戸っ子の気性は誤解されている。人情に厚いどころか総じて非人情である。しかし一途で見栄坊な「純情」ではある。そのあたりの正体を、主人公をはじめすべての登場人物が体現していた。ために主題は人間の純情という一点に収束し、ここでもまた文章と同様に脇目もふらず、よってまこと姿のよい作品に仕上がった。
「青山ワールドの真骨頂」 鹿島茂
三島由紀夫は『小説とは何か』の中で、小説家は作中で「舞良戸(まいらど)」という言葉を使わなければならない場合にどう対処したらいいかを論じ、(1)「横桟のいっぱいついた、昔の古い家によくある戸」、(2)「横桟戸」、(3)「まいらど、というのか、横桟のついた戸」という三つのオプションを示してから、正解はただ「舞良戸」と書くことだ、と述べていたと記憶します。
今回の選考で話題になったのもこのことでした。近年の小説の傾向として、読者にはまったく未知なかなり特殊な世界が背景として取り上げられることが多いためか、隠語や専門用語が必然的に頻出することになります。つまり三島由紀夫の論じた選択を迫られることになるのですが、しかし、どの候補作もあまり深く考えずにオプション(1)(2)(3)で処理している中で、青山文平さんだけは敢然と「舞良戸」とだけ書く道を選んでいるように思われました。それでいながら「舞良戸」の意味がちゃんと了解できるように書かれているのですから、これはお見事、名人芸というほかはありません。それは、おそらく、青山さんが三島由紀夫のように「小説とは何か」をしっかりと考察したうえで執筆に取り組んでいるからだと推察しました。
江戸の岡場所という特殊な世界での純愛譚が展開されるその裏では、堅牢に組み立てられた小説観が物語を支えているのです。まさに青山ワールドの真骨頂といっていい傑作で、ほぼ満票の受賞もむべなるかな、でした。