「『底惚れ』に圧倒された!」 林真理子


青山文平さんの『底惚れ』には驚いた。

圧倒される、というのはこういうことを言うのではないだろうか。読んでいくうちに、ぐんぐん引き込まれていく。一度たりともページを閉じることが出来ない。

江戸時代、屋敷に奉公する下男のひとり語りで物語は始まる。田舎から出てきて、とにかく喰いつなぐために屋敷者になった。金に汚い。うまい話はないものかと、目をぎらつかせているような若い男は、同じ屋敷に勤めていた女に刺される。彼女の仕える殿さまを強請ろうと考えたのが露見したのだ。

その時から男は変わる。目もくらむような嫉妬が男の脳天を貫く。殺人を犯してでも、自分の愛する男を守ろうとする人間がいることを知ったからである。

自分もいつかそんな風に女から愛されたい。その欲求が男を揺り動かしていく。自分を殺そうとした女に、ひと言礼を言いたい。生きていることを知らせたい。いや、ただ女にもう一度会いたいのだ。

下男の心の揺れ方とともに、文体が変わっていく見事さ。彼の荒い息づかいのように、短いセンテンスが続くと、こちらの呼吸も早くなっていく。

路地番の男との友情もいいし、もう一人のヒロインも実に魅力的だ。岡場所の経営がこれほどうまくいくものだろうかという疑問はあるものの、このサクセスストーリーは、爽快感とスピード感を生んでいく。

この『底惚れ』は、時代小説のひとつの成熟であると同時に、革新である。

 

「名前のない誰かの物語」 村山由佳

いいかげんくたびれた江戸っ子が語る生一本の純情物語にぐいぐい引っぱられ、一行たりとも読み飛ばすことができない。男の口もとに耳を寄せ、息遣いまで余さず聞き取りたい気持ちにさせられる。

これはいつものことだけれど、青山さんのお書きになる女性ときたら、じつに優しく雄々しくうつくしいのだ。見てくれではなく、心根や佇まいが際立っている。俠気のあるハンサム・ウーマン、いや、いっそ女気とでも呼びたいような肝の太さと繊細な思いやりを併せ持って主人公を支え、時に尻を蹴飛ばしたりもしてくれる。読んでいてじつにすかっとするし、同じ女性として嬉しい。

どの登場人物にも肉の厚みや体臭がきっちりと与えられている中で、とくに〈銀次〉の造形の巧みさといったらどうだろう。これは、主人公の男と、彼が底惚れしたお芳の物語であると同時に、銀次の物語であり、お信の物語であり、彼らと同じく日々を懸命に生き抜く市井の人々の物語でもある。主人公に最後まで名前を与えなかったのは、そんな意図もおありだったからだろうかと想像した。

小説全体の構えが大きくて見事なのは言うに及ばず、今回は何より文章の勝利であったと思う。文章は、そのひとの歌う旋律でありリズムであり呼吸である。青山文学はつねに読む者をその文章で物語に引きずりこんでくれるのだけれど、この作品ではそれがまた限界までタイトに削ぎ落とされて、とことん気持ちよく酔わされた。
青山さん、ご受賞おめでとうございます。