宮城の娘がシンデレラに

当時、宮城県の矢本(現在の東松島市)に米軍の落下傘部隊のキャンプがあった。松谷はこのクラブで月に一度出張で演奏する仕事をもらっていた。すると毎晩、ステージに上がってジャズを歌う娘がいる。梅木美代志という名前だった。キャンプで通訳兼歌手をしている男性の妹で、松谷の見るところ、兄よりはるかに歌がうまい。素質を見込んだ松谷はバンドのメンバーと相談し、彼女の交通費を出し合って鎌倉まで連れて帰ることにした。この娘こそ後に、日本人ジャズ歌手の草分けとなるナンシー梅木だった。

ナンシー梅木さんのブロマイド

 

松谷のもとでレッスンを受けた後、横浜元町のダンスホール「クリフサイド」でデビューした。日本人離れのした歌唱力が評判になり、あっという間に人気シンガーになった。アメリカに渡り、ハリウッド映画『サヨナラ』(1957)に出演、東洋人として初めてアカデミー助演女優賞を受賞する。主演の男優は若き日のマーロン・ブランドだった。まさか宮城から連れてきた18歳過ぎの娘がアメリカに渡ってシンデレラになるとは、松谷はもとより、誰一人として想像もできなかったのである。

松谷はやさしい男だった。彼が怒ったり、威張ったりするのを見た人はいない。そんな人柄を慕って、彼の周りにはいつも音楽を志す夢多き若者たちが集まった。戦後、日本ジャズの勃興期に、彼と演奏を共にしたバンド仲間や、ピアノ、ボーカルの指導を受けた生徒たちは、松谷の指先からこぼれ落ちる音の波紋となって、ジャズという未開の海へ漕ぎ出して行った。彼らは「松谷ファミリー」と呼んでもいいほど強い絆で結ばれ、やがて戦後日本の音楽文化を彩ることになる。

松谷はジャズと人生を語る時、いつもこう言った。

「音楽はジャンルを超えて、音を楽しむものです。
リビエラはそれを教えてくれた所です。鎌倉の町にも、私にも…」

11月5日に『鎌倉ジャズ物語』刊行を記念して横浜「ジャズミュージアムちぐさ」で行われたライブ。中央が松谷穣さんの孫・松谷冬太さん。ピアニストは松谷さんの親戚で、穣さん、穣さんのご子息・翠さんに師事した林あけみさん。サックスはシャンティ・ドラゴンの金剛督さん、チェロは林さんの弟子で穣さんの孫弟子にあたるクリストファー聡ギブソンさん。歌謡曲からクラシック、讃美歌、ジャズまで、松谷さんゆかりの音楽が演奏された(撮影◎婦人公論.jp)

鎌倉FM「世界はジャズを求めている」特別番組編
11月10日(木)14時オンエア!

ご視聴はこちらから→『鎌倉ジャズ物語

出演:筒井之隆、松谷冬太(ヴォーカリスト)
聞き手:村井康司(音楽評論家・『世界はジャズを求めてる』パーソナリティ)