米軍キャンプで歌う松谷穣さん。音楽仲間には、ゆずる、じょう、とも呼ばれていたという(写真提供◎松谷冬太さん 以下すべて)

 

戦後、鎌倉市・由比ヶ浜にあった「リビエラ」のバンドマスターとして活躍し、のちにキャンディーズ、山口百恵の歌唱指導をしたジャズ・ピアニスト松谷穣(まつやみのる)。その知られざる生涯と功績が1冊の本『鎌倉ジャズ物語』(筒井之隆著)としてまとめられた。出版を記念し、鎌倉FMでは11月10日、『世界はジャズを求めてる』を2時間枠に拡大した特別番組が放送される。ゲストは「ジャズミュージアムちぐさ」館長であり著者の筒井之隆氏、聞き手は音楽評論家の村井康司氏。この書籍の元になった筒井氏の記事を再配信します。


*************
日本のジャズの創成期に深く関わり、後進を育てたジャズ・ピアニストが松谷穣(まつやみのる)だ。1910年に神戸に生まれ、藤山一郎から山口百恵まで、時代を代表する多くの音楽家、歌手、ジャズ・ミュージシャンと交流した半生は、個人史でありながら時代の記録でもある。2023年に完成する「ジャズ・ミュージアムちぐさ」館長であり、「ジャズ喫茶ちぐさ」理事、横浜ジャズ協会会員の筒井之隆氏に、松谷穣について寄稿いただいた。
(写真提供◎松谷冬太氏 以下すべて)

鎌倉にジャズの灯がともった日

太平洋戦争が終わって間もなく、相模湾に面した鎌倉市由比ケ浜に一軒のビーチハウスが建った。海水浴客のための施設ではない。駐留米軍の兵士たちがジャズの演奏を楽しみ、ダンスを踊るためのクラブである。名前は「リビエラ」という。日本人の専属バンドが結成され「ムーンライト・セレネーダーズ」と名付けられた。人々の生活は苦しく、食べるものも満足にない。そんな身も心も飢えた時代に、戦争から解放された喜びを爆発させて、鎌倉の街にジャズの灯をともした男がいた。

松谷穣(まつやみのる)である。

「ムーンライト・セレネーダーズ」のバンドマスター。
略してバンマス。
本業はピアニスト。
住まいは由比ケ浜に近い江ノ島電鉄・長谷駅のそばにあった。

鎌倉空襲は、1945年1月9日に始まり、8月15日の終戦日まで数回に及んだが、幸い大きな被害はなかった。松谷は無事に生き延びて終戦を迎えた。35歳の夏だった。