自分で自分を持て余すほどの厄介なわたし
3月生まれは好きではなかったが、小学生の時は誕生日会なるものを自宅でやった。当日になると、よんでもいないクラスメイトまで来ていて驚いた。
母は料理が得意ではなく、焦げたウインナーと、ベタベタしたおにぎり、片面がこれまた焦げたホットケーキとほとんど中身のないマーガリンがドンと出てきて、よんでもいない男子に「誕生日なのにホットケーキにマーガリン、貧乏!」と言われ、やりたくもないドッヂボールをすることになり、運動オンチのわたしは誕生日だというのにバンバン当てられ鼻血を出した。ろくな思い出がない。
それ以来、自分の誕生日を誰かに祝ってもらおうなどと思ったことはなかった。
毎日のようにテレビに出ていた頃、誕生日となると、ケーキが運ばれてきてプレゼントが用意され、100人を超す人たちが拍手をしてくれた。わたしは、その度に、不機嫌になった。困ったのもあるし、気恥ずかしいのもあるし、なんだか泣きそうになるのを抑えなきゃとか、色々な感情が右往左往した。
わたしは、世の中にわたしを本当に祝ってくれる人なんているはずない、と思ってた。
テレビに出てるから祝うだけでしょう、来年出なくなったら祝わないんでしょう、どうせ、と思ってた。(実際、そうだった。当たり前だよ 笑)
自分で自分を持て余すほどの厄介なわたしだ。
自分を認めよう、好きになろう!と呪文のように唱えてきたが、なかなか難しい。ポジティブになろう!と言われてもねえ、と、溜め息をついたことは幾度もある。
だが、50歳に近づき、わたしは自分の取り扱い説明書を自分で書けるくらいには成長した。
自分の癖を知り、自分を理解する、ということは、自分とうまく付き合うことができる。おかげで、少しばかり、わたしにとってわたしは厄介ではなくなった。