肩に一家の家計がのしかかっていた

政子には稼がなければならない事情があった。政子が生まれたとき父は56歳で、すでに退役軍人となっていた。戦時中までは恩給が支給されていたが、敗戦後はそれもなくなり、政子の肩に一家の家計がのしかかっていたのである。

ある日、母の嫁入り道具だった置物や着物などが一夜にしてなくなった。借金もあったから、そのカタにもっていかれたのだった。兄一家は満州で敗戦をむかえていた。翌年の秋に無一文となって引き揚げてきた。

さて、日本航空の募集は知ったものの、その日が締め切りというぎりぎりであった。

履歴書をなんとか出さなくてはならない。履歴書を書くことはたやすいが、そこに貼り付ける写真がいる。現在のように即席の写真ボックスなどない時代である。政子はサヱグサの向かい側にある松坂屋の写真部に急ぎ、履歴書用の写真をとった。写真ができるまでにはなんと数日を要するという。

履歴書が間にあわない! 写真を貼った履歴書はととのわないが、なんとかならないものだろうか。応募に間にあわせることはできないだろうか。

政子は思い立つとその足で、日本航空の創立事務所にむかった。松坂屋からはすぐ近くで、こうなったら体当たりしか手段はないと思ったのである。

「そうですか、履歴書はないのですね。お名前は伊丹政子さん?」

応対してくれたのは江頭という男性である。

「履歴書はあとでお届けします。さっき松坂屋で写真を撮っていただきましたから、数日中には持参することができると思います」

「そうですか。わかりました。ところで、伊丹さんはどちらにお住まいですか。ああ、池尻ですか。では来ていただかなくても、僕は桜新町ですから、会社の帰りにいただきにいきましょうか。伊丹さんのお宅はどういうご家族?」

のんびりとした、人情味にあふれた時代だった。

伊丹は父のこと、満州引き揚げの兄のこと、自分のこと、家庭の事情でどうしても日本航空につとめたいと思っていることなどを率直に話した。まだ両親にはこの応募のことは相談していないということを除いて。

こんなときには、退役したとはいえ陸軍中将だった父の経歴は物を言った。

突然、飛び込んでいったものの、なんとか応募に間にあわせてくれることになったのである。直接持参したことで、これが事実上の面接試験ともなったようだった。