「ジャイアンツに負けゲームはない」(定岡)
──1期目、グラウンドでの『監督・長嶋』はどうだったんですか。
定岡 僕はドラフト1位で入ったけど、最初の5年はほとんど二軍だったんで、あまり接点がないんですよ。やっぱり一軍で勝ちだしてからな。一番印象にあるのは、1980年にプロ1勝目を挙げたとき。喜んでいただいて、「よく、頑張った」という一言だけだったけど、ほんとうれしかった。ふだん、会話がなかったんで。
──会話がないのはそのあともですか。
定岡 長嶋さんの監督時代はそうですね。普通に会話ができるようになったのは、監督を辞められて、ゴルフを一緒にできるようになったくらいからです。もともと巨人は、川上哲治さんが監督のときからの伝統もあって、監督が直接、選手と話すようなことはほとんどなかった。すべてコーチからで、時々、何かを言われても直立不動で「はい!」だけ。ただ、春のキャンプだけは、いつも一軍でやらせてもらっていたから、必ず一度はミスターの部屋に呼ばれました。大したことを話すわけじゃなく、「おお、体が少しできてきたな」とか言われるくらいでしたけどね。
篠塚 当時は結構、やられてましたしね、ピッチャーは。
定岡 うん、なんであんなにピッチャーに厳しかったのかな。あのピリピリ感は今も忘れられない。1期目の長嶋さんは、ほんと勝負の厳しさを感じさせる方で怖かった。学んだのは、ジャイアンツに負けゲームはない、常に勝っていかないといけないということだった。「リーグ優勝じゃダメだ、日本一にならないとダメだ!」と入ったころから言われていたからね。巨人は、そういう宿命なんだ。ミスターは、その中で戦ってきた人なんだと思っていた。
※本稿は、『昭和ドロップ!』(ベースボール・マガジン社)の一部を再編集したものです。
『昭和ドロップ!』(著:定岡正二・篠塚和典・川口和久・槙原寛己/ベースボール・マガジン社)
定岡正二、篠塚和典、川口和久、槙原寛己。
昭和に生まれ、昭和に育った4人の元アイドル選手が令和の今、荒々しくも華やかだった昭和のプロ野球を愛あり笑いありで語り尽くす!