「あゝ上野駅」

小学校の時に父が蒸発してしまい、母親が僕たち兄弟を一人で育てることになりました。末っ子の僕が一番母の近くにいることになりますが、朝から晩まで働き詰めに働いている。朝、僕が起きるときはもうすでに働きに行ってて、いろいろな仕事をかけもちして、帰ってくるのはぼくが晩御飯を食べ終わってから。母親が寝ているところは見たことがありません。

だんだん「歌手になって母に楽をさせる」というのが目標になりました。
でも、福井の田舎には歌手になるチャンスがないんです。ラジオから流れてくる流行歌をどれだけうまく歌いこなしても、コンクールもない。これが悔しかったですね。
だから、中学の卒業式の翌日に11歳年上の姉を頼って京都に行き、音楽学校に入学しました。ここでピアノやギターが弾けるようになったのは、大きいと思います。

関西音楽学院でも松山少年の歌の上手さは群を抜いており、いつの間にか教師の一人からバンドメンバーに加えられる。いろいろなクラブで歌っていたところ、美空ひばりの「港町十三番地」や初代コロムビア・ローズの「東京のバスガール」などで知られる作曲家の上原げんと氏を紹介されて、上京。上原げんと氏の門下生となる。それが1964年(昭和39年)だった。

この1964年(昭和39年)というのは、新幹線が開通して、東京オリンピックが開催された年。テレビも一般家庭に一気に普及するなど、終戦から19年経って、日本が目覚ましい復興を遂げ、日本全体に力がみなぎっているような象徴的な年でした。

そのころはまだまだ集団就職というのがあたりまえのようにあって、上野駅にたくさんの若者が降り立ったものです。その応援歌となっていたのが「あゝ上野駅」です。これを歌った井沢八郎さんも歌手を志して青森から上京してきたんですが、この曲は大ヒットとなりました。

●あなたとアイマショー”vol.2” あゝ上野駅