1964年(昭和39年)。東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催されるこの年に福井県出身の松山数夫という16歳の少年が東京駅に降り立った。
のちの「五木ひろし」―――誰もが認める国民的歌手である。芸能界に飛び込んで来年で60年。歩んできた歴史は、昭和の歌謡史そのものだ。五木ひろしが見た風景、語り継ぐべき日本の歌謡史を語る連載がスタートします。(構成◎吉田明美)

自然に歌が好きになった

僕は1948年(昭和23年)に生まれました。4人兄弟の末っ子で一番上の姉とは11歳違っていたので、家族にとてもかわいがってもらいました。
親父が歌が好きな人で、けっこう新しもの好きだったらしく家には蓄音機があったりして、家の中ではいつも音楽が流れていましたね。だからなのか、僕も自然に歌が好きになったんです。

朝から晩までラジオを聴いているから、自然に覚えて「リンゴ追分」や「おんな船頭唄」や「雪の渡り鳥」などを口ずさんでいましたよ。

五木さん5歳の頃。前列右が本人、中央が母、前列左が兄(写真提供◎五木プロモーション)

人前で歌ったのは、いつのころからでしょうか?
最初の記憶は、母が体を壊して入院した時だと思います。毎日のように病院にお見舞いに行ったのですが、そこで母に、美空ひばりさんの「リンゴ追分」を歌ってあげたんです。まだ年端もいかない小さなこどもがセリフも完ぺきに覚えているというので、同じ病室の患者さんたちが喜んじゃって、行くといつもリクエストされるようになりました。1日行かないでいると「寂しかったよ。早く歌って」なんて言われて、調子に乗って歌うとみんながまた拍手してくれる。あれが、僕が初めて人前で歌って拍手をもらった最初の記憶ですね。

地元のお祭りでも歌ったし、家に人が来ると「歌え歌え」と言われて歌っていた。たぶん相当歌の上手い子どもだったんだと思います。(笑)
歌うとみんなが笑顔で拍手してくれるのは、快感でしたよ。(笑)
そのころから漠然と「大きくなったら歌手になる」なんて思い始めていたと思います。

●あなたとアイマショー”vol.3” リンゴ追分