私たちの声はよく似ているのでどれも混ざる、来年も私たちは五人でいるだろう――。
 同じ高校に通う仲良し五人組、ハルア、ナノパ、ダユカ、シイシイ、ウガトワ。同じ時を過ごしていても、同じ想いを抱いているとは限らない。少女たちの瞳を通して、日常を丁寧に描き出す連載小説。

1 ハルア

 足もとを見れば敷かれた緑のゴムシートがのたうち、みんなできるだけ足で平らにならしながら歩く、ライトが作る影で人波の数は倍、私は平衡感覚を失う。カーテンが引かれ暗く、照明係はまだ練習中なので拙い動き方のライトで、体育館にいるものたちの影は伸び縮みし底に溜まる。人の出ている肌の部分は赤くなる。文化祭のダンス、二年生はダンス、ひとクラス二十五分も与えられているので、ストーリーあり台詞あり、音にのっていれば何でもありの。
 文化委員の相方の堺が来て、何か喋っている。クラスごとの通しリハーサル中なので、その用事だろう。流れ続ける音楽で聞こえにくいけど、口に耳を近づけていくわけにもいかず、私は口の動きだけで見極めようとする。話し終えてあっちに行く。スタイルがいいという一点で、クラスの女子に注目されている堺なので、私も堺の全体のシルエットを眺め見送る、いい部分は長く見ていたいので。
 ナノパ、ダユカ、シイシイ、ウガトワが四人で近づいて来て、「ハルアと堺の見つめ合い」とリズムにのりながら言う。「韻がいいね」「韻は別に踏めてないんだよね」「ここの堺のとこに、誰の名前を入れても結構リズムはいいしね」「替えが利くんだよね」「三年の劇、昨日放課後の公開練習行ったよ」「誘ってよ」「何クラスかはもはや劇じゃなかったよね」「終わりの来ない、永遠を感じた」「あれが永遠というものだった」「来年さ、私たちはあんな悲劇を起こさないようにしようね」「悲劇って防げるはずだもんね」
 私たちの声はよく似ているのでどれも混ざる、国際コースなのでもうクラス替えはない、来年も私たちは五人でいるだろう。これどう、とナノパが気になっている先輩とのLINEの画面を掲げる、見慣れた先輩のアイコンの写真、毎日見せられているので先輩の文の癖や間の空け方を全員熟知し、だからこそ微差でも好意や飽きは浮き出るように見える。「これは悩む必要がない、ナノパを好き」「この返事は?絵文字はつけるかハテナだけか」「もうそれはどっちでも何一つ変わらない」「もうそこまで見てない」二人のコミュニケーションは、絶え間なくたゆみなく続けることだけが目的になっていっている、昨夜の分のLINEの会話はそんなに過激でなく急展開もないようで、見守る私たちはすぐ飽きる。

 泣く妹と手を繋ぐママが私を振り返り、「ちょっとコアラもう一回見たいんだって、行ってくるわ、二人二人で別行動ね。春亜(はるあ)、あんたその、イヤホン取ってよ」子守りの時はいつもする、イヤホンで聞く読書をしていたのに、唸りながら私はイヤホンを外す。外せば何とつまらない、周りには何と聞くべき音もない。目で読む本よりはマシだろうし、目を配れば聞こえなくても、弟が悲鳴を上げればその表情で分かるんだから、イヤホンはつけたままでも無害だろうとも思う。葉が揺れる、風は、軽いものが止まるのを許さない、動物たちは無感動な様子で風に当たる。
 弟はシマウマが最高に好きだと言い、私にはシマウマは最も臭い。シマウマはサービスでもなく、ただ餌箱、草の盛られた石の箱がこちらにあるからこちらを向いてる、餌を食べているから穏やかな顔をしている。見入る弟の横で私は呆然と立ち尽くしている、他の動物の営みなど見てどうなるという気でいる。目は照りのある表面だけに注がれる、白黒の柄の兼ね合い、白と茶色の汚れの混ざり、どの動物、人間ものめり込むように見ていって拡大して肌の一面だけに見入れば、違いもなく良い悪いもなく、ただ湿った乾いた表面だろう、切り取ることができれば、そういう風に眺められるだろうと思いながらいる。
 弟の、爪を切った跡、自分で切ったからガタガタの跡、それを大勢によく見せたいかのようにガラスに張り付けている手。ガラスに手を触れないでくださいと注意書きがある、そのすぐ横を押さえて脂まみれにしていく手。手をそこから外してやって注意し、というのを、他のどの親かがやってくれないかなと思いながら眺める。周りには私の仕事ではない仕事が多過ぎる、爪も本当はまだ、大人が切ってあげた方がいいんだろう。
 シマウマは食べるのをやめない、弟も見るのをやめない、移動するより楽なので、ママと妹が帰ってくるまで、夕方まででもこの姿勢でいてくれていい、弟が何を見ていようと、私の目には関係ない。弟が歩き出せばついて行くから、私の脚には関係ある。他にどこがあるだろう、私と弟との全く関係のない部分はと考えながらいる。動物の肌は遠くからだと布と同じだ、布が肌を真似してるのか。
 弟は資料センターに走って入り、映像を流す画面の前に座る。友だちとなら何時間でも、暑くても寒くても道の角で立ったまま喋れるのに、ここでは体力を温存する大人のような振る舞い。周りの親たち同様、疲れを恐れている。肩を落としてみる、肩は少し楽になって、首を支える部分が手薄になるからそこが痛む。映像は様々な動物を説明、自分の毛の中に藻や虫を住まわせて繁栄させるナマケモノ、自分自身が森とはね、と思いながら眺める。
 虎と豹の剥製、虎は私の想像よりスタイルが悪い、虎はこんなバランスではないはず。弟は読める文字、何でもすれ違いざま読み上げる、言葉に親しむというより反射のような、動物と自分を区別するための行いのような。親が再婚同士だから、私と弟妹の姿形は全く似ていない、虎と豹の違いに比べたら微差だろうけど。だから私は弟の何にでもなれる、休みなく働くので動物園にも来れないパパの代わりにも、姉にも他人にもなれる。パパは、血の繋がりなくともパパと呼んであげなければかわいそうなほど、気の毒なほど働く。弟は資料室の本を抜いては戻す、弟が怪我などせず私が見失わない限りはどうなってもいいので、気楽に見守る。
 ママと妹が合流してくる。親と子なので、この人のどこに自分と似通うところがあるんだろうという、探る目疑いの目で見てしまう。占いたくない未来でも占ってもらっている途中のような目、自分の行く末がそれで透けて見えるでもないのに。ママの体型、性格能力、そういうのが自分のと重なるから、安易に見つめられなくなり、血の繋がりと言われればこういう部分が煩わしい。親とは決して予言ではないはず。
 動物園出口にあるミニ遊園地で、乗り物は一つだけ乗っていい、二人同じ値段じゃないとダメとママに言われ、弟と妹はどれに乗るかで争う。妹は値段の概念もないのだから、どれを指差しても何か折り合いがつかず却下され、訳分からなくなって泣いている。「鏡の部屋懐かしいね」と私が思わず言えば、「入ろうか、これにしよう」というママの答え、私の意見が尊重されたというよりは疲れによる。弟妹も争いに飽き、鏡の迷路に大人しくついて来る。鏡というかガラスなのか、アクリル板なのか、とりあえず反射し見にくくする素材が道を遮り、でも昔より私の背は伸びているので、端の方の天井についたエアコンも壁も見えて、幼い頃は無限みたいな部屋だったけど、それで怖くて泣いたりしてたけど。
 入り組む道を、弟妹は腕で顔をガードしスピードを上げる、腕くらい傷つくのは仕方ないこととしている。こんなに狭く細くあれば、追いかけるのも苦労しない、この部屋が永遠と続けばいいのにとも思う。いつもの通りに、私と弟、ママと妹のペアに分かれてしまう、板を挟んでママに呼びかける。聞こえは悪くても、角度によっては透明な板なので、ママが笑顔で答えるのが見える、聞こえないけど。
 人気がないのか私たちだけしかいない狭い部屋、入口出口には係員もいるので、子どもたちを見失わなそうな空間なので、ママもリラックスした表情、私もたぶん同じような顔でいる。でも私は決して弟妹の父親代わりでありたいわけではない、そうなればママとの力関係も、母と娘からは外れるような、弟妹を前に抱えてそれで自分の目の前も見えにくいようで。
 わざと大人たちからはぐれようとする弟妹、背はまだ低いから、この部屋の広さも、どこまでも続くものと感じてるだろう、床を見ながら行けば、板の有る無しが分かってぶつからないという知識も持たないで、それが分かればつまらなくもなってしまうので、私も足もとは見ないけど。板は見え方を工夫して、ママが透明に透けて見えるよう、私がどこか行きママが大勢現れる、いくつもあれば見応えあるというものでもない、ママが私に重なり私もママも消え、見知らぬ私の顔、私同然のママの顔。

 

井戸川射子の小説連載「曇りなく常に良く」一覧