『TAR/ター』
分断というものは前掲の『イニシェリン島の精霊』のように、不穏な砲声によって引き起こされるだけではありません。突如、誰かの思惑により個人の生活が破壊しつくされる場合も。このSNS社会、キャンセルカルチャーが横行している世界では「想定外」という事態は既に日常化した感すらあります。それを実在のベルリン・フィルを背景にハイセンスなスリラー、凄まじい転落劇(喜劇的な箇所も随所にある)として仕上げてみせた作品が『TAR/ター』です。
冒頭、ケイト・ブランシェット扮するターという女性指揮者の偉業(交響曲のコンプリートや現代音楽作曲、ミュージカルでの成功など、実在のマエストロ、レナード・バーンスタインを意識した設定になっています)がインタビュー場面を通じて明かされる。彼女は同性愛者でベルリン・フィルの演奏者であるパートナーとの間に養子がいることもその後に続く序盤でわかります。そして大学での講義場面もくどすぎるほど描く。
この講義で頭でっかちな学生を見事に論破する。その論理の破綻のなさ、自らの音楽性への自負からくる強さが強調されています。観ていて颯爽としてカッコいい。さらにその後、養子である娘をイジメる子をこっぴどく脅しあげる場面に繋がります。
こうした強さと共に指揮者としての楽団への統率力、新人チェリストへの懸想なども描かれるに至って、観客はターというキャリアの頂点にある女性が持つ強烈なマッチョ性に気がつくのです。そう、ここまでの場面はすべて“前フリ”なわけです。
その直後、論破した講義がSNSで拡散されパワハラとして注目されてしまいます。同時にチェリストへの恋愛感情が元で楽団やパートナーとの軋轢も生じ、映画の最初から差し挟まれていた過去に関係のあった若い女性の自死も伝えられる。この自死の責任はターにあると訴えられるに至り、マッチョ性が脆くも崩れていくのです。しかも寵愛していたチェリストの背後も怪しく、ターの精神も蝕まれて……。