私たちの声はよく似ているのでどれも混ざる、来年も私たちは五人でいるだろう――。
 同じ高校に通う仲良し五人組、ハルア、ナノパ、ダユカ、シイシイ、ウガトワ。同じ時を過ごしていても、同じ想いを抱いているとは限らない。少女たちの瞳を通して、日常を丁寧に描き出す連載小説。

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4 シイシイ

 喋らないのが最も安全、相槌ばかりうって、相槌でならもう出してない音はないような。フードコートは私たちの声のパワーを吸収してよりうるさく、私たちも自分たちに撥ね返ってくるものに負けないようにする。大声を出して誰に聞こえてもいいような話、または頬をつけ合うようにしてその輪の中で秘密の話、交互に繰り返す。ダユカの姉の悪口は大声でオッケー、ハルアの弟妹の悪口はひそひそ話になる、血の繋がりが決め手だろうか、私にその区別は分からないから、ただみんながやるのと同じようにする。
 文化祭の打ち上げはクラスでしゃぶしゃぶ食べ放題で、それまでの時間を五人でフードコートで潰していて、みんなの息は甘い飲み物のにおいがする。私は嗅覚鋭いのでそれがよく分かり、嗅覚なんて悪くてもそんなに困らないのに、これがあるから神経質に人やものを避けなきゃいけない。頬杖の延長のように見せ、指を伸ばした両手で鼻を覆う。自分の手のにおいだって、何を触って何が混じったものかも知らないけど。
 ナノパは誰かが話すのを聞きながら腕のトレーニングみたいなのを続けてて、こういうのは許されるのか、でも私がこの輪でネイルでも塗り始めるのはダメなんだろう。それはにおいが出るからか、許される範囲はどこまでなんだろう。人の輪でネイルはダメって分かってるのは、昔やって怒られたことがあるから、ただそれだけ。「次食べ放題だからもう飲むのやめとこ」と一人が言って、他の子たちもペットボトルを置く、それに倣う。
 私が話せば相手が怒ったり悲しい顔をする確率は高いんだから、まあそういう顔が、人間の顔のスタンダードだと思えばそれでいいんだけど。表情なんていう細かな動きで、気づき合って思いやり合ってというのを、私から見れば私以外の人はできている。それは見ているととても容易い手段、人には必須のことらしい、私にとってはやりがいない、努力が結果を連れてこない。人の顔は森で心は霧で、手探りで行こうにも人にはやたらに触れない、どの森にも手際よく奥まで分け入っていく暇はない。
 また奥歯でも欠けたかと思って、私はさりげなくトイレに立つ。ここからトイレは遠い、フードコートに長居させないために違いない。私も行くとウガトワがついて来る、人がいると歯の点検がしにくいから、走って逃げて違うトイレに行こうかとも思う。「ウガトワは打ち上げ何で来ないの」「お金もったいないからかな」「えー私たちと過ごせるのに?」「それはもう今ここでいいじゃん。食べ放題とかめっちゃ高い」と言って、ウガトワはトイレの個室に入っていく。この、別れ際数秒前まで、キリのいい会話をしてっていうのが、上手くできた時は気持ちがいい、幼い時はこんなことはできなかった、いつも私のセリフで会話というものは尻すぼみで終わった。
 便座に座って鏡を取り出して無理のある角度で見、より削れてはいない気がする。歯の噛み締めがひどく私は歯が弱く、歯医者に行けば歯並びはいいのにねと残念がられて、取り返しようもないものを、欠けていった歯を思い浮かべて、私は頷くだけ頷く、納得してないけど。目立つ部分なら継ぎはぎしてもらって、欠けたのは一応取ってある、後で繋げるとは思ってない、なぜか黄色くなっていく。欠けた部分に当てがっても、欠片は縮むというよりは膨らんでいっているような。砕けた歯の舞う口内は、砂を噛むってあのことで、残された歯は動じず舌だけが混乱して、なぞって確かめて、歯ではありませんようにと手に出して見、鏡を見、見るまでは本当のこととは信じられないんだから頼りない。
 欠けたのが奥歯なら、支障はないし歯医者には行かない、舌は足りない部分を舐め続ける、被害のなかった歯たちは知らない関係ない顔でいる、舌だけが気にする。舌は歯の親か、親は歯茎か、歯茎はただ立つ地かと、口が柔らかい家でと、歯が欠けている時は考えること多く忙しく、それでまた人の表情なんて見えなくなるんだから。
 みんながうちのママみたいにしてくれなきゃ。こっちを見て詩花(しいか)、と言って私の両肩を強く握って、顔を見せて、誇張した表情、いつもそうして見せられるのは怒りか悲しみの、笑顔であるならそんなに注目はいらないだろうから。ママの眉毛が濃くて良かった、薄くて散らばってたら、平行のまま動かなかったら、顔には何の手がかりもなかった。皺なんていうのはどんな時にも寄るんだから、あれは当てにならない。
 口を結んで目は歪んで、涙はすぐママの頬に流れるんだから、それだけじゃ区別もつかないよ、怒っているのと悲しんでるのは同じこと、と幼い私が言ったから、悲しい時はママは懸命に、眉と目の間を広くする動き、怒ってるなら眉は目に近づく。怒りの表情は顔が疲れる、長持ちしづらい。ああいう絵文字みたいな顔を、みんな私にはしてほしい、両肩もしっかり持って、人の表情なんてすぐ見飽きて向こう向く私を、しっかり固定してほしい。
 でも最近のママはもうそんな丁寧なことはしてくれない。私は分からないままでいるんだから、まだ必要なんだから、私が理由ではなくママ側の理由だけでやめてるんだろうけど。伝えることを諦めたのか顔に皺つくのが嫌なのか、私には分からない。怒ってるか悲しいかを言ってくれるからまだ分かる、でもママもその両者の区別は、もうつかなくなってるかもしれない。妹には能面のような表情で喋っても伝わるから楽なんだろう、ママは妹とばかり話す。通じ合うものがあるんだろう、そういう人同士で話すのはそれは楽しいだろう。親と趣味が合わなければ、子は自分で発掘、服や家具だって大人になれば自分で買い直し。

 妹が強くドアを叩いて、「もう出掛けるって」と向こうから言う、何か硬いもので叩いたんだろう、お互いがお互いの部屋の、ドアにも直には触りたくない。細かなことから喧嘩になってずっと話さない、リビングでも避け合い廊下ですれ違えば顔を背け合う、というのが、妹と私の間ではよく起こる。友だちの姉など持ち出して、あんなお姉ちゃんがいいなー、センスも良くて話も通じて、とか妹は私に言ってくるけど、じゃあ私はあんたじゃなくああいう妹が、と指差し言い返したりはしない、妹なんて本当にいらない。
 センスが良い悪いなんて、そんな雰囲気だけのもので見極められても困る。雰囲気なんていうものが、私には最も分からないんだから。雑誌を立ち読みし、モデルの顔は見たくないから指で隠して眺めたり昔はしてたけど、今はそうしなくても顔はどれもぼんやりと見えるようになってきて、だから人の表情なんかも分からないんだろう。雑誌や周りを参考にした外見、後はセンスというより好みの問題だろう。
 家族での外出だって、ご飯絡みじゃないなら行かない、自分でご飯は作れないから、置いていかれるわけにいかない。今日は串揚げの食べ放題で、音が足されて動きもあり食卓の沈黙は目立たない。パパママは、私たちの不仲はないもののように扱ってる、家族なんだから放っておいてもきっと大丈夫とでも思うんだろう、気が合わなくとも、共に住み食べてるだけで姉妹だと。努力抜きで何か成り立ち、永遠に続くなんてことあるかな。親が間に入って、もう不仲なのはやめなさいと叱れば、妹も改めると思うんだけど。
 いろいろな種類刺された串の前で、パパがあっちの端から一本ずつ全種類食べると言うので、私はじゃあこっちからと一本ずつ取っていく、卓上の液とパン粉をまぶして油に入れる。料理もこれくらい用意されてるならできる、これくらいなら楽しい。串を選びソースを選びして、揚げ油は色も量も頼もしく、あるものの中からこんなにも自由を謳歌して、口は熱さと歯触りを楽しんで、それでも妹の入れた串と、自分の串が接しないよう常に気をつける。
 自分の串しか面倒見ない私の姿勢を見て、「詩花は気が利かない。お世話系の仕事はダメでしょうね」とママが言ってくる。でも間違って妹の入れた串に触ってしまって、妹が舌打ち、もしくは私が触った串はさりげなく皿に避け食べないまま、ということになればどうする、私も串もかわいそう。どの仕事もお世話といえばお世話に見えるけど、どれも人や売り物のお世話でしょ、というのは、ママに言われてから何分も後に思ったことなので言わないでおく。じゃあ何の仕事が向くと思う、と尋ねるのも、ママが言葉に詰まれば、妹に弱みを見せることに繋がるからやめておく。
 パパが、「今度はお好み焼き行こうか、詩花も瑠麻(るま)も好きだろ」と、会話で私たちを繋げようとしてくる。「お好み焼きなんてみんな好きでしょ」と笑い、妹は自分から私を引き剥がす。明るい妹だ、親に好かれようとして明るい。パパも、沈黙を料理の音にかき消してもらいたいと、思ってるに違いない。噛んだ時、歯がまた気になったので私はトイレに立つ。口を大きく開けても中まで光は届かずじまい、片目を瞑れば見えやすい、くらいの工夫しか私にはない。前に欠けた部分はなだらかになってる、舌が変化を探す。洗面台から鏡が遠い、身を乗り出せば水のにおいが強い。