手を合わせた瞬間、頭に浮かんだのは
高島は、かつて海賊の襲撃にあったという。その危難から島民を救ったのが、野崎綱吉という武士だった。彼の死後、島民が恩人である彼を祀りその勇猛を称え建立した神社は、明治時代に宝当神社と呼ばれるようになったそうだ。
社殿の壁には、祈願成就のお礼の手紙や貼り紙がところ狭しと掲示され、参拝者の目をいやがうえにも引きつける。もちろん、そこには多くの「宝くじ当選」の文字が……。
小さな拝殿の前で、私は手を合わせた。いつものように素直な気持ちで感謝を述べ、叶えたい願望を――いや、実際のところ無心だった気がする。あれやこれやのお願いは、不思議と浮かんでこなかった。欲張りな私にしてはおかしなことだが、あの日、元気に暮らしているだけで十分な気がしてしまったのだ。
「これ以上望むことはありません。生かしていただいてありがとうございます」。そんな心境だったと思う。わざわざ遠方の最強パワースポットを訪れたのに祈願もせず、深呼吸したりのほほんと島の猫たちと戯れたりして、再び唐津行きの船にそそくさと乗り込んだ。
私が宝当の神様の前で柄にもなく殊勝に振る舞ったからといって、欲望が霧散したわけではない。一時はああした心境になったけれど、宝くじは当てたいし、安楽な暮らしを切望している。生きるとは、そういうことだ。人生が続く限り、欲望や夢は尽きない。神様はそんなこと、すべてお見通し。よきように計らってくださる。