私たちの声はよく似ているのでどれも混ざる、来年も私たちは五人でいるだろう――。
 同じ高校に通う仲良し五人組、ハルア、ナノパ、ダユカ、シイシイ、ウガトワ。同じ時を過ごしていても、同じ想いを抱いているとは限らない。少女たちの瞳を通して、日常を丁寧に描き出す連載小説。

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5 ウガトワ

 エスカレーターで互いの足を靴でつつき合い、地下のフードコートから地上に上がる。私以外の四人は文化祭の打ち上げ、クラスで食べ放題に向かう、こちらから見れば後ろ姿は浮き足立っている。こういうのに、自分が行かないことっていうのは別にいいんだけど、その後がめんどくさい。次学校で会った時みんなは打ち上げの振り返り、私に優しく教えてくれて、私はただ聞き役、感想は求められてるのか分からず、おもしろいコメントで相槌を打てればオッケー、話術だけが自分を守る。会話の輪から弾かれてるように感じて、退席やつまらない顔をすれば、じゃあウガトワも来れば良かったんじゃん、とシイシイなんかは言うだろう、あの子は自由に発言する子だ。他のみんなも、そうかもね、という顔くらいはするだろう。
 去年の打ち上げは、みんなでファミレスの後に公園で水風船したらしい、今考えたら、ファミレスくらいなら行けば良かった、食べ放題よりは安い。大きくなるにつれ遊びの金額も大きくなるなら、私はもう遊べなくなるかもしれない。ご飯はいいから、水風船のぶつけ合いを先にやってくれればいいのに、それはちょっとやりたいのに、お金もそんなに掛からないだろうし、でも満腹で夜も更けなきゃそういうテンションにはならないか。打ち上げのご飯終わった後、まだみんなで集まって喋ったり遊んだりしてるようなら私も呼んで、とは私は言えない。途中から参加して、みんなに大声で喜ばれるような子にしか、そんなことはできない。
 徒歩で行く、コンクリートを適当に流し込んだような道路、草花はあるだけできれいだし、腐っていっても、混ざりに混ざって次の栄養だ。私のリュックはユニフォーム、伸びない布地のバイト着が詰まって膨らんでいる。暴れ出したりもしないのに、腕で抱えて落ち着かせるように撫でてみる。最近は更衣室の靴箱が撤去されたから、バイト用の靴まで持ち歩かなきゃいけない。安全のために重く作られてて硬く場所を取り、靴擦れしないのだけが救い、合皮で油が埃を吸い寄せて、床そのものを持ち運んでるような嫌さ。部費とか道具代がもったいないから、部活も入ったことないから、ユニフォームと呼べば少し嬉しい気もする。
 でも部活なんかは逃げ場がなさ過ぎないか、部活で気まずくなった相手と顧問と、校内でまた会うんだから、全てが直結してて。バイトなら辞めれば何の関係もなし、その店に行きにくくなるだけ。こうやって、自分が関係できなかった、得られなかったものの短所を並べてみる。水風船だって、体が濡れて寒くなるだけ。文化祭の準備だって、バイトで放課後残れなかったけど、あんなのもきっと喋ってるばかり、バイト代が出るわけでもない。短所を挙げなければ諦められない、しょうもないから私は持たないのだと言い切りたいものが、別に私が否定して、それ自体が価値を失うでもないものが、これからも増えていくんだろう。
 流れてくるバーガーとサイドメニューで、トレイの上にセットを作り送り出し、と昼のピークは同じ動作をしていれば過ぎる。みんなが食べ残しや紙を捨てていくゴミ箱も、酸っぱいにおいがするともう知ってるから、袋を結ぶ時も何も思わない。時々ゴミ箱の中に大事な物を落としちゃって、と客が言ってきて、袋の中を私が手でかき混ぜ探すということもあって、その時はさすがに息は止めるけど。足は硬い靴に覆われ、でも手はこんな無防備に熱さに晒されてて、火傷して初めて自分の手や肌の存在を感じるようなものだ。夜は昼に比べれば客もあまり来ないし来ても大人しく、キッチンの奥では店員同士での会話が弾んでいる、大学生たちの会話には入りづらく、私はレジにいる。今度ライブに連れていってくれる先輩が、「永遠(とわ)ちゃん、曲の予習準備オッケー?」と聞いてくる。
 先輩は大学生でもなくもっと上だから、大学生たちの会話に入れない。だから一個飛ばしで私のところに寄ってくる。ライブのチケットだって買ってくれたんだから、悪い話でもない。できれば交通費も欲しいけど。年上と話す方が気が楽で、自分は無知なもの弱いものとして構えて、意見の食い違いは年が離れているせいにする、不思議そうな顔をしていれば話は終わる、競い合うこともない。先輩はスカートの裾を気にしつつカップの補充をしてる。「今日まで文化祭で暇なくて、あんま聞けてないかもです」と私は答える、私はそんなに音楽を聞かない、退屈な時でも、音なんてまるで聞いてない。「要、準備だよ」と先輩は私の顔を指差す、予習して行って何かを得ようと思うライブでもない。

 整理番号の運の悪さ、ステージの遠さが先輩を苛立たせている。知らないバンドの奢ってもらったライブって、こんなにどうでもいいものになるんだ、という気づきがもうある。遠くはよく見えない目だから持ってきたメガネも、リュックから出さないと思う。「ステージ遠いなー、私史上最遠」と先輩が言い、「でもあそことかよりは近いですよ」と私はより後ろの席を指差し、何にもならないフォローをし、最前の真ん中以外のどの席の誰もが、自分が最も悪い席というわけではないだろうと、あそこは死角ありあそこは段なく、と後ろを振り返って比べているんだろうと思う。どの席でも前の人が自分より大きければ、それで終わりの感もある。
 先輩は「何でこれが一曲目。分かってない」と私の耳もとで言って、おおー、と私は返し、このライブの間の相槌は、これだけになるだろうという予感がしている。知らないものは肯定否定できないんだから、ただの見てる聞いてるという反応になる、先輩だって無知な後輩にこれ以上望まないだろう。何曲目と何曲目が良かった、くらいは帰り道で言わなきゃ盛り上がらないだろうから、曲の目立つ部分は覚えておこうとする。また連れてきてもらいたいと思ってもないのに、無意識の内にどこででも多く得ようとしている、貧乏性ってやつか。これからも少しでも得しようと思いながら、何でもやってしまうんだろうか。
 初めて聞く人用にはっきり歌ってるわけじゃないから、歌詞は聞き取れない。音のみには共感もできない、言葉がなければ。ファンの間で決まってる振り、ダンスが多くて、前の小さい子どももできている、腕は上に伸ばしてるだけじゃ悪目立ちする。私にとってはどの曲も同じ、もしくは微差、ファンなら微差をこそ楽しむんだろう。部外者にとってはただ叫び、大きな音、でも私はできるだけ自分で楽しむ、体はただ横に揺らす。見渡せばここでは喜んでいる人ばかりなんだから、こういう場所に来るのはいいことだ。ここにはここに来れる人しかいない、チケットを買えて、もう生まれて、歌を理解できるくらいには大きくなってて。
 家に帰ってき、奨学金の説明の、三年の先輩に借りた大きな封筒を机から床に落とす。学習机の上には、見ていて楽しいものしか置きたくない。封筒は薄く、でも中の書類には参照しなきゃいけないネットのページなどいろいろ書いてある。説明を読めばまた、これではまたお金に何か決められてしまう、節約の工夫が私の時間を奪ってしまうという感が私を焦らすだろう。お兄ちゃんお姉ちゃんに訊けば、あれは借りない方がいい、大変、と言われて、経験者のアドバイスは信じるに足るけど、失敗談から成功の話などは導けず、じゃあどうすればいい、と聞いても二人は俯くだけだろう。失恋とかもそうだけど、何でも成功した時にしか、成功の理由は分からない気がする、失敗して分かるのは失敗の理由だけである気が、もうこの失敗をしないということでしか、失敗は活かせない気が。
 台所の水道は湯になるまでが長く、その間流しっぱなしにするのももったいなく、水の間は湯沸かしのポットに入れたり、コップに溜めたりする。まだ水のまま出てる、流しの横に転がっている透明の、これは半透明か、ビニール袋があるので手に取って、流れる水を入れてみる、すぐ重くなってくる。文化祭の打ち上げの話はもう聞いた、水風船じゃなくて、百均で水鉄砲をみんなで買って公園で撃ち合ったらしい、ハルアと堺がいい感じだったらしい。ハルアと堺っていい感じだもんな。ナノパは速く走り、ダユカはこだわりの前髪を、濡らさないように気をつけただろう。
 みんなの説明を聞いてると、言葉なんて少ししか伝わらない、下手な言葉だからか。でもそれはそこにいなかった方が悪い。出る水が湯に変わってきたので袋は蛇口から外す、袋の水は後でベランダの溝にでも流して、それで掃除としよう。袋に入れれば水には皺がつく、握り込める。袋の口を縛って、流し台に置いて引き摺り回してみる、袋の強さをあまり信じてないので、恐る恐るにはなる。捏ね回せば袋の水は、自身の意思で重心を動かしているように転がる、小さい頃ならこれに顔でも描いて飼っただろう。投げても水風船のように、上手く弾け飛びはしないだろう、この袋はそれ用に作られてはいない。手にのせれば中の空気が動く、手が水を包み水が手を包む。