地獄のようだった東京大空襲
やがて軍国主義の時代が始まり、お姫様やレースのドレスどころではなくなりました。私立の女子中学校(当時は高等女学校)に入学しましたが、戦争中は学徒動員で工場に通うように。東京も頻繁に空襲に見舞われるようになりました。
45年3月10日の東京大空襲で、下町は壊滅状態に。わが家はかろうじて空襲を免れましたが、近くの亀戸、錦糸町、両国あたりは一面火の海に。
当時2年生で級長をしていた私は、翌朝、田町にある動員先の沖電気の工場に行って同級生の被害状況を確かめなければ、という思いに駆られました。そこで親が止めるのも聞かず、駅へと向かい、線路の上を歩き始めたのです。
小岩から西に行くには、中川と荒川放水路の鉄橋を渡らなくてはいけません。枕木と枕木の隙間から下に落ちたら即死です。すると見知らぬおじさん2人が私を紐で結わえて前と後ろで持ってくれ、なんとか無事に川を渡りました。
平井でいったん線路から降りると、マネキン人形がたくさん転がっています。母が洋裁学校をやっていたので、マネキンは見慣れていました。ですから大きなマネキン工場が空襲に遭ったのかと思ってよく見たら、煙を吸って亡くなった人間の死体でした。
再び線路に戻って両国あたりに行くと、隅田川にたくさん死体が浮いています。あの地獄のような光景は今も忘れられません。