怒りの根幹
「とにかく、ぼくはセント・ジョンズ大学の博士号をもらってから、リージス高校の卒業証書を受け取ったんだ」
これがピートの自慢だった。
頼まれるとイヤといえない性格のピートは、たくさんの講演会に招かれあちこちへ足を運んだ。ほかの仕事でどんなに忙しくしていても、できる限り時間をさこうと最大限の努力をした。
とにかく話が上手く、よく通る声でジョークを連発して会場を沸かせる。聴衆の多くがシニア世代で、1960年代にピートがニューヨーク・ポスト紙にコラムを書いていた頃からのファンも少なくない。
靴底に開いた穴をもつピートの気持ちを彼らは深く理解した。靴底に開いた穴を嘲笑う上級生たちへの怒りを共有した。その怒りの根幹には貧しさ以上の何かがあった。差別された者でないと、わからない怒り。「世の中は公正でなくてはならない」という真摯な思い。
しかし、実際には「公正でないこと」が横行するばかりで、権威が大手をふる。その権威とは、実は尊敬に値するものではないことが明らかになったとピートはいいたかったのだろう。
「戦争に行くのは若者と相場が決まっている……世界のありとあらゆる国で大人たちは若者に他国の若者を殺すことを教えてきた。銃とスローガンを与え、それを正しい道、尊い行いと説いてきた」(1965年12月2日、ニューヨーク・ポスト紙)
60年代から70年代に書かれたピートのコラムを読み返すと、怒りをぶちまける彼の息遣いまでが伝わってくる。「ニクソン大統領を弾劾せよ」
1970年5月、オハイオ州のケント州立大学で反戦を訴える4人の学生が殺された時にも、ピートははっきりと声を上げた。
彼のコラムを読んだ副大統領のスピロ・アグニューは「ピート・ハミルの言っていることは理性のかけらもない戯言(イラショナル・レイビングス)」と怒り狂い、70年代中盤にニクソン政権下でつくられ、のちに有名になった「政敵マスター・リスト」にはグレゴリー・ペック、スティーブ・マックイーンなどに並んでピート・ハミルの名前が載った。
「あのリストに入っていたのは名誉だった! 入っていなかったら、ちゃんと発言していなかったも同然だからね」