台北から台中に向かう汽車のなかで、案内係の役人から、台中の有力者である蔡家と、その令嬢の噂はきいていた。蔡家は十八世紀中ごろに大陸の漳州(しょうしゅう)から台中にわたり、おもに田地の経営で財をなした名家で、台中郊外に広大な邸宅をかまえているという。その蔡家の三姉妹のうち、ただひとり内地留学していた次女の秀琴が、近頃、台中に戻ってきて、結婚の準備をしているらしい、とか。しかし、その蔡家の令嬢と、百合川琴音が同一人物であるとは、ハルはまったく想像もしていなかった。
 文学に造詣が深いとはいいがたいハルでも、百合川の作品にはいくつか目を通していた。田村俊子(たむら・としこ)を彷彿とさせるような、女性の視点からのエロティックな性愛を描くところに特徴があって、これは発禁ぎりぎりじゃないかしら、とはじめて作品を読んだときハルは思ったものだ。
 しばらく黙りこんでいると、百合川は、少し不満げな声でいった。
「まだ、質問に答えてもらっていないが。あと、よかったらきみの名前も教えてもらえるかな?」
「たいへん失礼しました、お嬢さま。女子英学塾の濱田ハルと申します。そうですね……内地の第一線で活躍する女性作家のみなさんの息づかいを感じるような意義深い講演会であったと思います」
 値踏みするような目でハルを見てから百合川は深くため息をついた。
「ほんとうにそう思っているのか? 別にだれに告げ口をするわけでもないのだから、率直な感想をきかせてほしい。少なくともわたしが内地できいた講演に比べれば、まったくしょうもない内容であったと思うよ。大したことを話しているわけでもないのに、『弁士中止』の連発にはまいったね。なにをそんなに警戒しているんだか」
 ハルはその言葉にまた驚かされた。というのも、ハルが感じていたことと、百合川の感想がきれいに重なったからだ。
 台湾総督府からのやんわりとした、しかし有無をいわせぬ要請で、女性作家たちが当初の社会主義的ともとられかねない原稿を、比較的穏やかなものに書き換えたという裏事情をハルは知っていた。にもかかわらず、今日の講演では「弁士中止!」という警官の声がしばしば響き、いったい総督府はなにをきかせたいっていうの、とハルも不満に思っていたところだった。