しかし、ハルはこの初対面のお嬢さまに本心を明かすつもりは毛頭なかった。
「聴講料が高すぎると思います。こちらの物価はまだよくわかりませんが、二円という額は一般的な女性労働者が払う額ではないのでしょう。実際、今日の講演で客席を占めていたのは、女工や断髪のモダンガールではなくて、夫君同伴の丸髷(まるまげ)の奥様方ばかりでした」
 百合川はいかにも愉快といった表情で笑う。
「きみは賢いな。そのとおりだよ。こっちの石鹸工場の女工が一日に稼ぐ額はせいぜい二十銭程度だろう。十日分の給料を費やしてまで、講演をきこうと考える労働者はまずいない。だから、ここにきたのは、わたしのような苦労知らずか、台湾人の上流階級の奥様方、内地人のひまな奥様方というわけだ。でも、きみはまだ内容についての感想をちゃんと述べていないな」
 ハルは、軽くため息をついた。このお嬢さまの問いに正面から答えないわけにはいかないらしい。
「お嬢さまと同じ印象です。あれだけの顔ぶれを揃えながら、自由な発言を規制するなんてほんとうにばかげています。あたしはお世話をしているかたからききましたが、なんでも総督府から良妻賢母や忠君愛国についての話をしてほしいって要望があったみたいです。もちろんお茶をにごしたわ、とそのかたはおっしゃってましたけど。ほんとばかみたい」
 ハルの言葉をきいて、百合川は大きな声で笑った。つられてハルも微笑む。
 別れ際に百合川が、きみはこの南国で働きたいと思ったことはあるかね、と冗談めかしてきいてきた。
 そのときばかりは、ハルは躊躇することなく、いつものように大きな声で答えた。
「そうなったら夢のようです!」
 それから、三年以上がすぎて、百合川のことも、台湾のことも忘れかけたころ、長い取り調べから解放され、解雇された職場に荷物をまとめるために出向くと、上司から一通の国際郵便をわたされた。
 差出人の蔡秀琴(百合川琴音)という名前を見た瞬間に、ハルはふしぎな胸の高まりを感じて、急いで封を切った。
 ――わたしの雑誌にはきみの感性が必要だ。生活全般すべて面倒をみるから、体ひとつでこの街にきてほしい。決して後悔させないということは、わたしの名にかけて保証する。
 そんなほとんどプロポーズのような文面が目に飛びこんできた。
 梅雨が明けるよりもはやく、ハルは亜熱帯の街に旅立つことを決めた。

(続く)

この作品は一九三〇年代の台湾を舞台としたフィクションです。
実在の個人や団体とは一切関係ありません。