私たちの声はよく似ているのでどれも混ざる、来年も私たちは五人でいるだろう――。
 同じ高校に通う仲良し五人組、ハルア、ナノパ、ダユカ、シイシイ、ウガトワ。同じ時を過ごしていても、同じ想いを抱いているとは限らない。少女たちの瞳を通して、日常を丁寧に描き出す連載小説。

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17 シイシイ

 美術館の床は音を吸収する絨毯、私の目が作品を吸収し、作品は人の視線を吸収していく、視線は表面を滑っていくか、と私は眺めながらいる。喋れば目立って、周りに聞こえてしまう場所だから、人といてもみんなあまり喋らない、聞いてほしいような知識を持つ人が喋る。パパはみんなに相談もせず、美術館の年間パスポートを人数分なんて買ってきて、ママも子どもたちを文化的なものに触れさせたいのか、一年の内に何回もみんなで行こうねと言っていた。まあ子どもと文化を繋げる場所なんて私にも、美術館博物館くらいしか思いつかない。妹は部活終わりの夕方から連れてこられて、でもこの後夕飯も外で食べるので仕方なく来て、だらだらとした足取りだ。疲れて足ももう上がらないというのを言いたいのか、足の裏を引きずり歩く。パパは知識みたいなのをママに言ってるけど、説明を読み上げているだけだ。
 適温の中歩き回れるので、美術館などは環境の良い場所、足もと暗く展示品だけが光り、人同士邪魔になり合い、並ぶまでもないかと人を避け、考えることなどはあまりないので、今目だけを使い、美術は美しい風景だ、自分と関係がなさ過ぎる。私の次の作品に行くスピードは早く、「詩花、本物を鑑賞してから、説明文を読んだ方がいいよ」とママが自分なりの見方を教えてくる。私には私の見方があるけど、と思いつつ頷く。興味のないのは説明など読まない、同じ説明が違うやつに付けられていても、私には分からない気にならない。「年取って来たら、家族でここに来たのを思い出すだろうな」とパパは言い、家族とは思い出作りのためのものだろうか、友だちなんかはまた少し違って、その時その時の実益がある気がするけど、思い出なんかは副産物って感じがするけど。
 みんな黙って、ここにあるのは作品と私一対一ですという顔で鑑賞していて、パパも賢いというか、姉妹間の会話が全くなくても自然な場所を選んだんだろう、一年こうして、家族で列になって同じものを見ていけば、何か変わると思ってるのかもしれない、そうなら私はその気持ちを汲みたいので、少し妹に近づいていく。「新石器時代って時代の最初の最初だっけ?」と妹に聞かれ、「日本史もう進んじゃってるから、昔過ぎてちょっと覚えてない」と答える、肩を上下させる反応だけ残して妹は先に行こうとする。「これは一万年前ってことだよね。古いってだけでこんなにすごく感じるなんてね」と言ってみる、「確かに。これがどんな形であったってすごいもんね」と妹は答え、感想など言い合えたのは嬉しく、でも知らなさ稚拙さにがっかりされるのも嫌なので、これ以上は寄っていかないでおく。妹の、血色良く花のような口、「残ってるってだけで価値あるんだよ」と言うと、「また詩花が当たり前を言ってる」とパパに言われ、こういう言葉に黙らされてきたのかもしれないとも思うが、それならそれにも負けず当たり前を言い続ければいい。
 昨日はそうやって美術館に行ってきてと言うと、「優雅だねえ」とウガトワが答える。ナノパがウガトワの膝に座って、使い捨ての私のカイロに絵を描いている、教室のカーテンは一枚きりなので、陽を通しながら防ぐという難しい役割、窓の外の、冬は葉を諦める木。休み時間でうるさいので、校内放送がよく聞こえない、聞き取れなかったのは私だけだろうか。「シイシイは家族気にし過ぎ。家とか、別に何をする場所でもないじゃん、そんな濃密な関係を求めなくても。バイトしたら?疲れて何も気にならなくなるよ」「ウガトワは兄姉が家出ちゃったから、その存在感を忘れてるだけだよ」「そうかあ、まあ気になるかあ。私もう就職に決めたからかさあ、仕事が何でも解決してくれるような気がしてるよ。湯河ちゃんが面談で、働き始めてからこそ得意なことは見つかるよ、って、忙しさでそれどころじゃないって場合もあるけど。何かになってからの方が腰を据えて、自分の中の何か見出せるのかも」とウガトワが言い、話はどういう結論だったのか私には読み取れない。仕事で家族は解決しないだろう。
 「ウガトワはしっかりしてるもんね」という雑な返事になる。誰とのどんな話もだいたい、何が言いたかったんだろうというのが、終わっての私の感想となる。周りだって、私から有益な言葉を引き出そうとは思ってないだろう、私はキャッチボールの相手ではなく壁打ちの壁、しかも頼りなく柔らかく、どんなボールも上手く跳ね返せない壁だ、小さいだろうし。「それより恋愛が分かんない」と先輩と別れたナノパが、悩んでいるでもなくただ言いたいだけという感じで言う。「でも、あなたは特別、何で特別なのかは分からないけど、っていうのが恋愛なんじゃない。だから特別ならとりあえずそれで、成り立ってるんだよ」と私は言う。「恋愛が分かってるっていう人だって、分かってるのは自分の恋愛だけで、局所的だよ。恋愛を分かってるからしてるわけではないんだろうし、分かんないっていうと、分かってるより劣ってるというか、分かるようにならなきゃいけないみたいな。分かってるの前段階が、分からない、ってことになってるけど、死ぬまで分からなくてもいいわけで」と私は言いながら自分でも、自分の言うことは言葉の繰り返し多く、それによって強調されるわけでなくただ語と語が紛れていくだけで、人には分かりにくいだろうなと思っている。
 でも分からないと言えばバカにされる、分かるようになったらいいねと気の毒がられるのだから、恋愛くらいいくらでもできるんだから、最大限やってみて結局分からずじまい、と言ってみても、本物のに出会っていないからだよとでも、また気の毒がられるだけだろう。本物の恋愛こそきっと、その場に立ってても何が何だか分からないだろう。みんな少し知っただけで、何でも分かったことにしてるんだろう。「私の恋愛を分かっていくしか、恋愛の真理に近づく道はないんじゃない。まあどの真理だって、辿り着きたい人が着けばいいだけだし。シイシイに恋愛がいらないのは、会話がいらないと思ってるからじゃない?別に人と会話をしたいとも、それをネタにしてまた別の人との会話を弾ませたいとも思ってない」とナノパが言う。いらない、のないは不足ではない、そこは別に埋めたい余白ではない、ある、が常に目指すべきものではないというようなことを私は言いたいけど、言っても私の言葉はきっと通じず徒労、ないがあるに変わるわけでもないんだろう。ナノパは先輩にフラれたことさえ、会話の種にしていこうとする。「私って会話は、できないも同然だから」と言ってみる、会話のできなさだって会話の種になる。
 「シイシイ、会話なんて、もう決まってるようなもんなんだよ。髪切ったんだーどう?って相手に言われたらだって、いいじゃーんって答えるしかないでしょ。良いか悪いか訊いてるわけじゃないんだから。もう切っちゃってるんだから」とウガトワが言う。「会話ってそんなもんなの?相手がいなくても、本当はいいってこと?でも私は言いたいことを言いたいよ」「まあ本当は会話ってそういうもんだけど。正直者同士で付き合えばいいんじゃない」「その人の前では正直になれるのが、信頼して付き合ってるってことじゃない?」「正直になれるのは家族の前じゃない?」「家族はそうではなくない?」と三人で意見は合わない。ここですり合わせても無駄なのだからこれでやめておく。じゃあ友だちっていうのはどういう関係?とは、友だち同士ではすり合わせないんだから不思議だ、それ同士だと明言は避ける。家族の食卓で、家族とは何かなんて話し合わない、外で学んできたのをそれぞれ持ち寄って、食卓で発揮してるわけだ。
 「そろそろ重いわ」とウガトワはナノパを膝から降ろそうと、足踏みでガンガンやる。「振り落とされない!」とナノパはお尻で踏ん張る。カイロの模様は細部まで描き込まれてるけど、毛羽立つ表面なので潰れていっている。「シイシイは、このシイシイそのままでいいんだよって言ってくれる人と付き合わなきゃね」とナノパが笑うので、「それはナノパにだって、そういう人がいいよ。正直になれる人が」と答える。「私は誰の前ででも、正直になんてなれないかもしれない。自分さえ騙してるかも」と絶望の顔をナノパはして、そう言われると毎日接している私たちにも徒労感が来て絶望ではある。「先輩にはお兄ちゃんには、なってもらえなかった?」「無理があったね。別れて良かったんだよなあ」とナノパが頭を抱える、ああこれは答えのヒントがあるやつだ、もう別れちゃってるんだから。良かったかはまるで分からないながら、「良かったんだよ」と私は答える、「そう言ってくれると思った」とナノパはまた笑う、笑っていないよりは、笑ってるの方がいいだろう。