言語伝わらずともニュアンスがあれば

今回のやり取りで一番苦戦したのが、編集長と全く会話ができなかったことである。日本国内では新規に仕事する際、まずはメールで内容を確認してからオンラインで打ち合わせをする。タイミング合えば直接、会社にも出向く。大まかなことはメールで確認するとしても、ちょっとしたディテールはやはり話した方が早い。電話での通話がはばかられる時代であることは承知しているけれど、齟齬に気づかず、最終的に原稿の修正を強いられるのは私。個人事業主のリスクヘッジなのだ。

「詳細なご相談を電話で行いたいとのご提案を承知いたしました。ただ、弊誌側には日本語を流暢に話すスタッフがいないため、引き続きメールでのやり取りをお願いできれば幸いです」

これが編集長からの返事。うぬぬ……。ちなみに先方から届く日本語のメールは、全てChatGPTとGoogle翻訳で訳していたそうだ。まるでS N Sの翻訳文章を読んでいるような違和感はこれが原因だったのか……。

実際、メールだけのやり取りだけになると、ちょっとした行き違いが起きる。言葉の奥底にある意味が伝わらないせいだろう。例えば私は「安藤サクラ、永山瑛太、田中裕子、それぞれ2500文字ずつ、個別の企画として書く」と解釈をしていたこと。多くのメールをやり取りするうちに、それが間違いであることが分かる。先方は三人の演技批評を7000文字程度で、一つの企画として書いてくれと伝えていたらしい。危ない、危ない。

あとは敢えて文字にすることはなかったけれど、初見同士、信用問題は生じた。向こうからすれば私の脳内にあるエンタメに関するデータを文章にしたい、とオファーをしてくれた。とはいえ、信用ゼロの個人事業主、いつ原稿を投げてトンズラするのか分からない。

こちらからすれば「やっぱりこれ詐欺なんじゃ」「最終的に原稿料問題が発生したらどうしよう。日本語ならどうにかするけれど、ハングル語はアニョハセヨしか知らん」という、会ったこともない相手にドキドキ。その空気を察したのか、会社の事業者登録証を送付してくれた。

この浅い信用度を少しずつ埋めていったのが、編集長との丁寧なメールのやり取りである。毎日のように長文を交わしていると、不思議なもので互いの熱量が伝わっていく感覚があった。メールは多いと1日で6通ほど交わすこともあった。正確な日本語ではないけれど、ニュアンスだけでも充分。いつの間にかメール交換が楽しくなっていた。これ、中学生時代の文通効果みたいなものだろうか。