全羅道水軍左水使・李舜臣
1592年4月12日、 山に日本軍の一番隊700隻が上陸したとき、慶尚道水軍を率いていた朴泓(慶尚左水使)は戦わずして逃亡しました。もう一人の指揮官である元均(慶尚右水使)も、日本軍の勢いを見て勝ち目はないと思い、水軍の船をみずから沈めて逃げ出しました。
こうして慶尚道水軍は無抵抗のまま壊滅し、日本軍は労せずして制海権を確保しました。
ところが、さらに逃走を続けようとする元均に対し、これではあまりにも情けない、全羅道水軍に救援を仰いで日本軍と一戦交えようと諫める部下がいました。元均もやむなくそれに従いました。
救援要請をうけたのは、全羅道水軍で左水使をつとめる李舜臣(1545〜1598)でした。彼は釜山陥落の報に接して憤り、日記に以下のように書き記していました。
―4月15日慶尚右水使(元均)の報告によれば、倭船九十余がやってきて釜山浦の絶影島に駐泊した。慶尚左水使(朴泓)からも公文が届き、倭賊三百五十余隻が既に釜山浦の対岸に至った。16日には慶尚右水使から公文が来て、釜山の距鎮はすでに陥落したという。非憤に堪えない。
―4月18日東 府城もまた陥落し、梁山・蔚山も敗北、慶尚右水使は軍を率いて東 府城の後ろに来たが、釜山浦が陥落したのを聞き、怖れをいだき、外に出て倭賊を挟撃すると偽り、蘇山駅に逃げ、さらに兵舎に戻り、自分の妾を脱出させ、自らも逃げた。また、慶尚左水使も城を捨てて逃げた。憤懣やるかたなし。
―4月20日慶尚道観察史の公文に「倭賊の勢いは盛んであり、その矛先に敵するものなし。彼らは長駆して勝に乗じ、あたかも無人の野を行くようだ」という。「戦艦を整理して救援することを願う」という。
若いころより勇猛果敢さを知られていた李舜臣は、上司や運に恵まれず、長い間、不遇をかこっていました。しかし、彼と同郷の幼なじみで、副首相の地位にあった柳成龍(のちに首相)がその才能を買って、全羅道水軍左水使に大抜擢したのです。それが文禄の役の前年のことでした。
なお、ここで紹介した李舜臣の『乱中日記』は、1592年1月1日から死の直前の1598年11月までの戦闘をリアルタイムで記録したもので、非常に史料的価値があり、日本語版も出版されています(『乱中日記―壬辰倭乱の記録』北島万次訳注、東洋文庫)