《受賞のことば》
深い森の中を彷徨って 荻原浩
このところ学生時代の仲間たちが次々とリタイヤしている。みんなヒマなようで、『いま軽井沢。ヤッホー』とか『朝の散歩が終わって焼酎飲んでます』なんていうお気楽なメッセージがスマホに届く。こっちは原稿が進まなくて、パソコンの前でため息をついているというのに。
おまえらグループラインをインスタと勘違いしてないか。朝から焼酎はやめろ。ほんとにまったくもう、うらやましい。こんな時、ふと考えてしまうのだ。自分の定年はいつなんだろうと。小説家にもスポーツ選手のように引退時というものがあるのではないかと。
そういえば、最近、作中のなにげないフレーズが、死語に思えてきて、パソコンで検索してしまうことが増えた。『写メ 死語』『マジ 死語』『ダイヤルを回す 古語』
ワンフレーズならまだいいが、自分の書いている物語そのものが、世間とズレてはいないかが心配だ。『荻原 死話』
あと何年続けられるだろう。そろそろ休んでもいいかも。俺も『ヤッホー、朝から酒飲んでまーす』と誰かにラインしてみたい。そんなことを考えていた矢先に、中央公論文芸賞をいただきました。ぐずぐず言わずに、もう少しやってみろと背中を押された気がした。
うん、がんばります。自分にあとどのくらい時間が残されているかはわからないが、こうなったら、かすみ目でキーボードと間違えてジャンボ板チョコを叩くようになっても、チョコを叩く指という指が、肘という肘が(二つだけか)関節炎で痛んでも、前回書いた内容を忘れて次号にも同じことを書いた原稿を送るようになっても(いや、これは誰か注意してください)続けようじゃないか。
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賞をいただいた『笑う森』は、『週刊新潮』に一年間連載したもの。私は綿密にプロットを立てるほうではないし、原稿を早めに書きためておくタイプでもないから(威張ることではないが)、週刊連載は綱渡りだった。しかもこの小説は、登場人物それぞれが章ごとに視点の主になり、時間の流れも行きつ戻りつする、ややこしい構成で、この方向で間違いはないのか、読む人にわかってもらえるのか、そもそもいまどこへ向かって進んでいるのか、連載中は毎週手探りで、自分自身がずっと深い森の中を彷徨っているようだった。
物語の中の小樹海「神森(かみもり)」は架空の場所だが、書きはじめる前に、本物の青木ヶ原の樹海に行ってきた。昼と夜、二回。紅葉の盛りだった昼の樹海は、静かで素晴らしく美しかった。冬の手前に行った夜の樹海は、寒くて夜空がきれいで闇が恐ろしい場所だった。
夜の森で確かめたかった第一は、人工の照明のない中で、他人の動作や表情がどこまで見えるのかだったのだが、何も問題なかった。月明かり、星明かりだけでじゅうぶん明るいのだ。そして不思議なもので、闇の中にしばらく居ると目が慣れてくる。真っ暗だった周囲の風景がぼんやり見えてくるのだ。夜の樹海を歩いた頃にはまだ、登場人物たちの容姿や素性は曖昧だったのだが、連載開始時にはキャストが出揃った。みんな樹海のあの闇の中から、ひょっこり出てきてくれたのだと思う。
資料を集め、勉強に時間を費やしたのは、森のことではなく、物語の主人公の一人、真人(まひと)の特性であるASD(自閉症スペクトラム障害)について。当事者でもない人間が、他人の障害を物語の都合で扱っていいものか、書きはじめてからもずっと悩んでいた。
だが「ASDにはさまざまなタイプがあって、症状はひとくくりにできない」資料のあちこちに出てくるそんな言葉や、いろいろあっても状況を明るく笑う当事者の声を、勝手ながらよりどころにして、ASDは真人という子どもの個性であって、彼の短所であり、長所でもある。そんなふうに書いたつもりだ。この小説を読んでくれた人たちにも、そう思ってもらえれば、ありがたいです。