そんな苦労をした祖母は実に優しかった

祖母は『あゝ野麦峠』の世代の少し後。映画の時代の女性たちの生活は更に過酷だったろう。

不思議なのは、そんなに苦労した祖母が実に優しかったことだ。『あゝ野麦峠』の主人公、大竹しのぶが演じた「政井みね」(実在の人)もそうだ。ただ一人、飛騨より更に山奥で貧しい五箇山から出てきた篠田ゆき(原田美枝子)は同僚に心を閉ざすが、あとは似たような境遇の娘同士助け合い、辛いことは自分の父母を思って耐えている。その姿が実にいじらしい。

テレビは勿論なく、文字を読める者もあまりいない。別の世界を見ることもないから、自分たちの状況を「当然」と受け入れられたのかもしれない。比較することもないから惨めになる必要もなく、庄屋の娘や宮家の人々は「雲の上の人」。平等だとか、人権だとかそんな意識もなかったのは、ある意味幸福か。

彼女たちの次の世代は次回作の『あゝ野麦峠・新緑篇』で、労働争議に目覚めていく。

しかし、「無知」と言う牢獄の中、過酷な人生に耐えている明治の少女たちの姿は、ただいじらしい。だからこそ「自分の母親や妻、娘に少しでも楽をさせたい」と思う男たちが、後の女性人権運動にも協力したのだろう。家電製品も「女たちを楽にしたい」と、作られたはずだ。その恩恵を受けて暮らしている私たち現代の女は、当時に比べてはるかに恵まれて暮らしているのに、多くの不平や不足感に悩まされているのは何故なのか。勿論「明治時代と比べて恵まれているのだから、多少のことは我慢すべき」と言いたいのではない。

ただ、与えられた環境の中で懸命に生きるということが、こんなにも人の動かすのだということは学んでいいと思う。人は自分以上に苦労を知る人を尊敬するものだ。「若い時の苦労は買ってでもしろ」と言うが、今時の恵まれ過ぎた環境の中では、子どもたちも強さや英知を身に付けようがない。

とはいえそんな娘たちを搾取する大人たちはひどいことこの上ない。工場の社長・足立藤吉(三國連太郎)は、工場の時計を遅らせたり進めたりして労働時間を引き延ばし、少女たちを酷使。又、その息子春夫は、最も貧しい生まれで器量のいいゆき(原田美枝子)を慰み者にし、妊娠するや親子で堕胎を求めるのである。持てる者が持たないものを見下し、利用していく様がこれでもかと描かれ、私たちの頃を揺さぶらずにいられない。「無知」は悪なのだ。搾取されないよう、私たちは当然の労働者の権利について知らなくてはならない、と。