まりさんのご両親も「歌手になる夢」を娘に託した方で、仕事にもプライベートにも厳しく、うちの父と似ています。互いの境遇に親しみを感じ、食事に行ったり身の上話をするようになりました。
ミエさんは元気いっぱいのパワー姉さん。10代から一緒に下宿していて、年もひとつ違い。仕事場でも一緒だから、ケンカもしょっちゅう(笑)。ズバッとものを言うけれど、一番女らしいんじゃないかな。
まりさんは天然キャラで、私が一番男っぽい。再結成後は3人で支え合ってステージをこなしました。私の声が出なかったときや股関節の手術をして歩けなかったときも、2人に助けてもらって。
まりさんが骨折して歩けなかったときは、ミエさんと車椅子を押したり。コロナ禍では、「生きてる?」って電話しました。
2024年の春、まりさんが体調を崩したと聞いて心配していたところ、「以前、患った乳がんが転移して入院するの」と、本人から連絡をもらいました。入院中も、「抗がん剤が効かなくなってきた」「ゆかり、苦しい」と、私のスマホにたびたび連絡があって。
7月に緩和ケアのホスピスに会いに行ったとき、顔色が明るくなっていたから、ちょっとホッとしたり。「9月のコンサートを目指して頑張るからね」と、笑顔で言うほど元気だったんですよ。「力になれることはなんでも言ってね」と言って帰ってきました。
それが7月26日の朝、まりさんのマネージャーさんから訃報が届いて。じつはその前日にふと、お見舞いに行こうかと思ったんですが、夕方の5時を過ぎていたので面会時間に間に合わないだろうと諦めてしまった。一目だけでも会えていたらなと、それが今でも心残りです。
亡くなる前に、まりさんからお願いされたことがあります。「私になにかあったときに、ゆかりもコメントを考えておいて」と。「な~に言ってるのよ」と返したけれど、それからすぐ亡くなってしまった。自分の死期を悟っていたのかな。
生前整理して、自分の葬儀の挨拶文まで用意してあって見事でした。ステージ衣装やアクセサリーは、「これはゆかりに、これはミエさんにもらってほしい」と、きちんと分けてくれていた。ミエさんとマンションを訪ねて、その足で病院に行き、「もらったよ、ありがとう」と報告したら嬉しそうにしてくれました。
ドレスはお直しして、ありがたく着ています。そのドレスでステージに立つと、一緒に歌っているような気持ちになる。まりさんの終活のお手伝いができたかな、と思います。