結婚して北京へ渡り、翌年女の子を生んだ時も、私は愛する夫の子供を産む女の味うであろう幸福感を人並に十分味った。私はしたことのない台所仕事に次第に熟練するのが楽しく、不如意な家計のやりくりが上手だとほめられるのが得意であった。夫を偉大な学者の卵だと信じ、彼のかげでつつましく人目にたたず、内助の功をつくす妻になるのが私の当時の夢であった。

本手記だけでなく、話題となった小保方晴子さんとの対談も収録された新刊『笑って生ききる』(著:瀬戸内寂聴、中央公論新社)

内ごう地しょが空襲にさらされ、郷里が一夜で焦土になり、母が防空壕で焼け死んだのも知らず、私は劫初のけがれなさで輝きつづけているような北京の碧空の下でのんきに暮していた。天皇の写真ののった新聞を破っただけで罰が当るという教育のされ方をして来た私は、その頃でも骨の芯から忠良な臣民であり、日本の敗戦など夢にも考えたことがなかった。

戦争が私に直接結びついて来たのは、二十年六月の夫の現地召集からだ。誕生日が来ない子供をかかえ、私は親類一人ない北京に無一文でとりのこされた。夫の職場が輔仁(ほじん)大学から北京大学に変ったばかりで、内地からの任命がいつ来るかわからず、従って北京大学の給料が出ないという不安な状態の中である。内地からもう手紙も通じなくなっていた。

 

私たちの間に本当の会話はなかった

私はその日から俄然活動的になった。七つの行李(こうり)につめて母が持たせてくれた嫁入支度の着物を、一枚のこさず中国人に売った。しつけもとらないまま、一度も手を通すひまもなかった着物が、それから2年の私達親子の生命を支えてくれることになろうとはまだ想像もしなかった。

札束を畳の下に敷きこみ、私は職探しに奔走した。赤ん坊をかかえた女の就職の難しさは、どんな時代にも変ることはない。ようやく私に与えられたのは、家からさして遠くない城壁の真下の運送屋の事務員の口であった。少女の阿媽(あま)に赤ん坊と留守をあずけ、私は生れてはじめて就職した。その日が8月15日だった。

電話を4、5本とりついだだけで私はその店の応接間で主人や使用人と最敬礼をしながら天皇の声を聞いた。ザアザアという雑音にまぎれこんだ天皇の声は歯切れの悪い濁った頼りない声であった。意味もとれないほど雑音でかきけされていた。後につづいた現地司令官の声で、はじめて私は事態を納得した。