イメージ(写真提供:写真AC)

 

どんなふうにその店をとびだしたのか覚えていない。気がつくと私は人気もない大通りの商店の軒下で雨宿りをしていた。しのつくような雨が視界をさえぎっていた。となりに若い少年のような俤(おもかげ)の兵隊がやはりぼんやり雨を見つめていた。見るまに雨は上り、簾(すだれ)を巻きあげるようにするすると雨脚が上っていった。城門のかなたで遠雷が走るのが聞えた。

その時、私は自分が深い真暗な水の底から不意に浮き上り、大きな息をしたように思った。雨上りの大気が真実肺の奥までひりひりしみとおってきた。見なれた北京の町並が見知らぬ国の未知の町筋のようにきらきら目に映って来た。私は次の瞬間、悲鳴に似た声で子供の名を叫び、気が狂ったように子供のいる胡同(フートン)の方へ走りだしていった。

夫が帰って来た。内地へ帰りたくないという夫に従い、私も終戦の翌年まで北京に残った。終戦の日を境に、私の内部に一つの変化がおこったことに夫は気づかなかった。その時になって、私は夫と結婚以来何ひとつ話らしい話をしていないのに気づいた。日常生活はあったが、私たちの間に本当の会話はなかった。今になって心の中のもどかしさを伝えようとしても通じあうことばのないのを発見した。

私はもう過去に教えこまされ信じこまされた何物をも信じまいとかたくなに心をとざしていた。教えこまされたことにあれほど無垢な信頼を寄せていたことを無知だと嘲(わら)うなら嘲われてもいいと思った。無知な者の無垢の信頼を裏ぎったものこそ呪うべきだと私は考えていた。もう自分の手で触れ、自分の皮膚で感じ、自分の目でたしかめたもの以外は信じまいと思った。その頃私に確実に信じられるのは日一日と私の腕の中で重みを増す子供の量感だけだった。

着物の金を使い果たし、命からがら引揚げて来た内地で見たものはもう一度私を叩きのめした。私は飢えていたものがとびつくようにあらゆる活字にとびついていった。それらの活字のもつ意味を私はかわいた海綿のようにじくじく吸収していった。私の内部には次第に新しい自分が生れはじめていた。なじみのないよそよそしい自分だったけれど私はその新しい細胞の一つ一つに自我という文字が灼きつけられているのを息をつめて見守っていた。

そんな頃、私に恋がふりかかった。それからの経験やJとの愛を通してみても私には恋愛は不測の事故だと思えてしかたがない。彼に恋を打あけもしないで私は夫に自分が恋におちたと告白していた。

25歳の私の恋は、年より幼稚で、狂気じみていて、まわりじゅう傷だらけにして拾収もつかなかった。

後で考えれば全くノイローゼになって、私は家出という形をとった。ませていてもたかだか21歳の青年にこんな重荷な女が受けとめられるはずはなく、半年あまりで私たちは一日も一緒にすごさず、私が惨めな裏切りをして、彼から離れていった。

3につづく


瀬戸内寂聴、58年前の手記  愛人「J」との訣別
【1】でたらめなスキャンダル記事の中の私
【2】良妻賢母の座から一挙に不貞な悪女の座に堕ちて
【3】目をそらして来た彼の妻の影像に向き合う


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【目次】
Ⅰ――教えて!寂聴さん 悔いなく生きるコツ
・この世に一人の自分を、自分が認めてあげる ×瀬尾まなほ
・95歳で得た気づき――。もう十分生きたと思ったけれど
・96歳、出会いを革命の糧にして
人は生きている限り変わり続けるのです
Ⅱ――人生を照らす8つの話
Ⅲ――人生を変える3つの対話
・「あの世」と「この世」はつながっています ×横尾忠則
・小保方さん、あなたは必ず甦ります ×小保方晴子
・家庭のある男を愛した女と、夫の嘘を信じた妻の胸の内は ×井上荒野
Ⅳ――心を揺さぶる愛と決意の手記

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